*三谷幸喜作・演出 公式サイトはこちら 世田谷パブリックシアター 7月31日まで
三谷幸喜の作品はチケットを予約する段階で「きっと無理」と諦めてしまうのと、これまでみたほんの数本の舞台(テレビ中継も含め)やドラマに対して、「ほんとうにおもしろいのか」という疑問があり、関心が遠のいていた。素直に楽しめばよいものを、そう簡単におもしろがったりはしないぞと気構える。おもしろい、素晴らしいと絶賛されることにずっと違和感があり、「期待していたのにそれほどではなかった」という少数意見を目にすると、ほっとする。ひねくれ者なのだ。
今回は友人のお連れが仕事のため、自分が代わりにみることになった。チケット入手の苦労もせず、棚ぼたとはまさにこのこと。感謝と恐縮で、それでも久しぶりの三谷作品に用心しながら高揚する気持ちを抑えながら。
休憩をはさんで3時間と少し、実に楽しくゆったりとした気持ちであった。満足の一夜だと言ってよい。しかしいろいろ考える。話の運びが後半から冗長であるし、個々の人物の造形も予想を裏切るほどのものではない。浦井健治が演じるベッジの弟によって銀行強盗に巻き込まれる流れは必然性があるのだろうか。老若男女どころか犬まで11役を演じる浅野和之が超人的に達者なことは認めるが、複数の演じ分けや早変わりを、技術面を越えて楽しむことはできただろうか。神経を病む夏目金之助が小説を書くという志をもつ経緯が唐突で強引ではないか。異文化のなかで消耗し、自尊心やプライドを傷つけられ、日本に残した妻とは心がすれ違う。英語を聞いて話すことに疲弊し、自信を失いかけたとき、心軽く話せる相手、それがメイドのベッジである。ベッジは貧しい生まれ育ちで、これまで人から褒められたことがない。さびしくみじめなものどうしが惹かれあうのはわかる。金之助とベッジが次第に心を通わせ合う様子は微笑ましく、もっと仲良くしていいのにと思いながら、妻と離縁してベッジと一緒になると決めたり、子どもがいることを隠す理由があまりに単純だったりすると、もっと心象の変化や機微を知りたくなるのだ。
久しぶりの三谷幸喜の作品において、自分は目の前の舞台を素直に楽しむことを受け入れた。現代劇、しかもコメディに出演する野村萬斎の魅力的なこと。劣等感など無縁のお方のように思っていたが、劇中の金之助の苦悩は嫌みなく伝わってくる。そしてベッジ役を演じる深津絵里の愛らしさ!やや過剰な造形はうっかりすると技巧面が際立って鼻についてしまうことがあるが深津ベッジにはそれがなく、後半の不幸な転落がいっそう切なく感じられる。
パンフレットによれば、三谷幸喜は、当初もっと苦い作品を書くつもりだったが、震災を経て「こんなときこそ、お客さんに笑ってもらえるものにしたい」と路線変更した由。その判断はある面で正解であった。しかし少々残念にも思う。辛く悲しい思いをしているとき、不安におののく日々において、笑いが人を救うことは確かであろう。だが再び苦悩に揺り戻されたとき、何に救いを求めるのか。もう一度笑わせてと願うこともあるだろうが、重い題材やシリアスな物語であってもなお、そこから傷を癒し、不安を鎮める心の動きもあるはず。
開幕前に『マイ・フェア・レディ』の「Wouldn't It Be Loverly?」が流れ(同道の友人に教えてもらった。自分の何と無知なることよ)、柔らかで可愛らしいメロディーに心が優しくほぐされていくよう。カーテンコールでも同じ歌が流れて、ゆうべからずっと耳の中で鳴り続けている。
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