因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

Hgリーディング

2011-06-15 | 舞台

*詩森ろば 作・演出 公式サイトはこちら (1,2,3,4,5,6,7,89,10,11) 日本の問題製作委員会協賛 チケット代の1500円は、最低必要経費をのぞいて被災地への義援金とする由。
 自由学園明日館講堂 15日のみ
 2008年初夏に上演された『Hg』の第一話「猫の庭」をリーディング上演する試み。初演の出演者がほとんどだが、今回のリーディングがはじめての俳優さんも数人。第二話のみに出演した西山水木がト書きを読み、手話通訳者(米内山陽子/トリコ劇場、田家佳子/日本ろう者劇団)も壇上に上がる。
 明日講堂はその名の通り講堂であるから、舞台が高い上に客席にも段差がないために、演劇の上演に最適とは言いかねるのだが、池袋駅から徒歩5分程度の距離にあって、都市の喧騒を忘れさせる静謐な空気があり、特に今夜のような演目の場合、俳優の声を一心に聞きとろうと思わず背筋が伸びる。
 壇上には長机3つに、人数分の椅子。俳優はめいめい白いシャツやブラウスに黒っぽいスカートやパンツ姿で台本を読む。出番のない俳優も緊張感を保ったままずっと着席しており、強いまなざしで話している人物をみつめる。

「猫の庭」は、水俣病の加害企業であるチッソにおいて猫を使った実験が行われていたという事実をもとに書かれたものだ。1959年の秋、工場長、現場の技師、附属病院の医師、地元採用の女子事務員や総務の社員が登場する。結果的に彼らは水俣病の原因がチッソにあるとわかっていながら、その事実を隠蔽したのだが、劇はそれぞれの立場から社員として、その土地に生まれ育った者として、職業人として、人間として激しく悩む姿を描く。

 水俣を福島にチッソを東電に有機水銀を放射能にことばを置き換えれば、そのままこのたびの大震災と福島第一原発の事故を語る内容になる。初演の第二話は、2008年に舞台が移り、胎児性水俣病の患者たちが過ごすグループホームに、彼らのことを演劇にしたいという東京の劇作家が訪ねてきているという設定になるのだが、自分には今夜の「猫の庭」だけの淡々としたリーディングのほうが遥かに心に響くものがあった。

 5月25日朝日新聞に掲載された「水俣学」を唱える医師・原田正純さんのインタヴューを読み返す。半世紀以上前に起きた水俣病の教訓が生きなかったことを深く憂いながら、今後どうすべきかを冷静に説く。温和なお顔立ち、謙虚でわかりやすい語り口に心と頭を整えられながら、「どうしてこんなことが起こってしまったのか、これからどうすればいいのか」とやりばのない怒りと不安に再び襲われる。

 作・演出の詩森ろば(共同発起人に津田湘子。出演も兼ねる)が、初演から3年たって本作の第一話を再演したことに敬意を表したい。2011年3月11日以前の作品をそのまま、しかし心を新たにし、深い思いをこめて振り返り、問いかける行為は、新作や改訂版の上演とはまた違う意味と価値を持つ。風琴工房の舞台をみるとき、俳優の演技が少々強過ぎる点に違和感があったのだが、今回はリーディング形式であることもあって抑制が効いており、自然に受けとめることができた。

 福島原発関連の報道をみるとき、当事者側の顔つきがほぼ一様に生気なく感じられる。企業風土や体質は、社員の顔やたたずまいに出てしまうのだろう。恐ろしいことだ。職業人としての誠意、良心、品格というものは、本人の自覚や努力だけで保つことはむずかしく、長年その場に身を置くうちに企業利益の名のもとに握りつぶされ、あるいはみずから捨て去り、そしていつのまにか摩耗する。そうすることが働きつづける上での知恵のひとつかもしれない。しかし今夜の『Hg 猫の庭』に登場した当事者のチッソの人々は、被害者側の方々からみれば、「好意的に描き過ぎだ」と思われるかもしれないほど、愚直なまでに誠実であった。「それはお芝居だから」のひとことで片づけられるものだろうか。
 
 今夜のリーディング公演に、自分は詩森ろばの先見の明というよりも、劇作家としての良心と誠意を感じた。道がみえないのに歩かねばならないのがこの国の現状である。どこへ行きたいのか、どんな国にしたいのか。考え続けよう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ドラマツルギ2011 tamago PUR... | トップ | シス・カンパニー公演『ベッ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事