*アントン・チェーホフ作 堀江新二翻訳 奥村拓演出(1) 公式サイトはこちら 21日まで
会場は築80年の民家ギャラリー「ゆうど」。大通りからほんの少し奥まった場所にあり、迷わなければ駅から徒歩5分で到着する。「庭や、三和土、空間もステージとし、違和感なく、全てのものが溶け込む空間として展示会・ライブなどが行われる」とチラシにある通り、畳や板の間に敷かれた座布団に座り、椅子にかけて、おもての通りを走る車の音、犬の吠え声や、ここで芝居が行われていることなど全く関係なく普通に歩いているご近所さんのすがたも含めて、『かもめ』の世界を体感する。
休憩を含めて約160分の長尺におののいたのだが、杞憂であった。
できるだけ静かで快適な環境で観劇したいと願うのは普通のことである。上演時間が長く、内容がむずかしそうな芝居であればなおさらだ。そういう意味では「ゆうど」は観劇に適した空間とはいいかねる。しかし、芝居の作り方、見せ方によっては不自由で不便なことも気にならず、逆に楽しむことができる。
場所の特殊性に負けじと正面からぶつかっていく方法もあるし、場所の空気に自らを委ねる方法もある。前者のような心意気が力強い舞台を生むこともあるが、演出家・奥村拓は後者、気負いのない、自然体のお方であろう。
記憶をたどると『かもめ』はこれまでに5回みたことがある。しかしいずれも印象が曖昧で、「これだ」と確信できるものはなかった。にも関わらず、チェーホフの四大悲劇のなかでいつのまにか最も好きな作品になっていたのはなぜだろうか。謎が多いこと、いかにもこれで結末だという終わり方でないこと、物語の重要部分がステージのそとで起こっており、登場人物の台詞で語られる場合が多いことなど、いろいろ思い浮かぶ。戯曲を繰り返し読むと、この人物の造形はこう、あの台詞はこう言わねばという思い込みが強くなってくることが多いが、何度も読んでいるわりにはイメージを固定できないことに気づく。
自分が戯曲を読む場合、人物のイメージが決まらない=読みにくいことなのだが、チェーホフの場合、誰といって俳優を決めることなく読んでおり、古典だ名作だと言われながら、絶対的な定型を持たず、どんなところが名作と言われる所以なのかを考え続けさせてくれるのが、チェーホフのやっかいでもあり、同時におもしろく、興味の尽きないところだと思う。
さて本日、上演後のアフタートークにゲストとして出演させていただきました。長時間の上演のあとも会場に残ってくださったお客さま、今日は夜の部がすぐ控えていたのにトークに顔を出してくださった出演俳優の方々、ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。いまはトークの反省が嵐のように押し寄せているので、舞台に対してじゅうぶんなことが記せませんが、今日の『かもめ』、正確には16日に見学させていただいたゲネプロも含めて、自分にとって大変貴重な舞台になりました。また戯曲を読み直し、次に出会う『かもめ』に備えます。
以下気づきを箇条書き。
*これまでトリゴーリンという人物をきちんと意識して見ることがなかったが、ニーナに創作の苦悩を吐露する場面に思わず聞き入る。この人も苦労しているのだなと。
*今回の長尺を乗り切れたのは、休憩を告げる下男のヤーコフのおかげである。
堀江新二訳では、第三幕の終わり、トリゴーリンとニーナの長いキスで幕が下りたあとに、ひっそりと「第三幕と第四幕の間に二年が過ぎる」とあって、これを読むときに二年の時間を自分の意識のなかに「落とす」。この感覚に近いものが、ヤーコフによって与えられた。こういうやり方があるのか!
*「あんたの顔なんか見たくもない」と妻のマーシャに言われたメドベジェーンコの複雑な笑顔に釘づけ。いったいどんな演出が?
*これまでみたポリーナは、例外なく不幸を一身に背負う陰鬱な造形であったが、今回はきれいにメイクし、娘よりも若々しい服を着て妙にテンションが高い。不幸を突き抜けて違う精神状態になったのか?
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