*田川啓介作・演出 公式サイトはこちら 王子小劇場 14日まで
舞台を一緒に作りたいと願い、劇団を結成する。その交わりを維持し、成長させていくのは大変むずかしいことだと思う。演劇が好きだという点では同じでも、それぞれの考えや希望は必ずしも一致せず、衝突や混乱もあるだろう。カリスマ的な主宰が牽引していく方法にも問題があるし、ひとつの集団を維持運営するにはさまざまな雑事も生じる。日大芸術学部演劇学科から誕生した劇団掘出者との出会いは今年の春『チカクニイテトオク』であった。それから7ヶ月、第5回公演の『ハート』は、この劇団が着実に成長している足取りを確信させるものであった。
☆今日みたこと、感じたことをたくさん書きたい、伝えたいのですが、むずかしい。お読みになっても意味のわからない箇所がたくさんあると思います。自分の筆の拙さがはがゆくてなりません。これからご覧になる方のために、このあたりからご注意を☆
白い壁が一面にあり、上手と下手に出入り口のようなものがひとつずつ。他には何もない。極めてシンプルな舞台である。公演チラシにも新作について具体的なことはまったく書かれておらず、観客はほとんど情報のないままに舞台に臨むことになる。女性が登場し、客席に向かってアダム・スミスの「共感」について感想を話す。自分には小学2年生の弟がいる。弟が大好きだ、お母さんも大好きで、自分は弟やお母さんの中に入って、同じようになれると言う。そして彼女の少し奇妙な癖を持つ弟や母親、弟の担任教師、友達や近所の人たちなどが次々に登場する。俳優は複数の役を兼ねるだけでなく、ひとりの人物を入れ替わり立ち替わり違う俳優が演じるのである。
たとえば眼鏡をかけることで、その俳優は少女になり、ズボンとシャツの裾をまくって少女の弟になり、エコバッグを下げると彼らの母親になる。男女の区別もなく、少年から老人まで。混乱は感じられなかった。目の前にいる人物は特定の誰かであると同時に、他の人物にもなりうるということだろう。
相手を理解する、相手の気持ちに共感することがどれだけ困難であるか、共感できたと思ってもたちまちそれは誤解であり、ひとりよがりの思い込みであると絶望させられる。しかし人は誰かと繋がっていなければ生きていけない。自分が傷つくのも嫌だが、自分が誰かを傷つけるかもしれないと思うと、もっと恐い。自分が人からどう思われているのかが気になってしかたがない。登場人物の言動はいささか自意識過剰のようではあるが、相手を理解したい、共感しあいたいのに、それができずにもがき苦しむ姿は痛々しい。チラシにある細い釘で形作られたハートは、傷つきやすく、傷つけやすい彼らの心を表わしたものだろう。
自分が好ましく思うのは、本作の形式が作者の手腕を見せることや、表現の手段や仕掛けに陥っていないところである。演じる俳優がめまぐるしく代わることや、男性が女性役をやったり、いきなり老人になったりするところで結構笑いも多かったが、客席の空気が次第に張りつめてくるのがわかる。この作品はここで終わるものではないと思う。言い換えれば作者の思いはまだ続いている。劇団の名前の通り、自らの思いをさらに掘り出し、さらにみる者の心の奥底からももっと掘り出してほしい。
舞台を一緒に作りたいと願い、劇団を結成する。その交わりを維持し、成長させていくのは大変むずかしいことだと思う。演劇が好きだという点では同じでも、それぞれの考えや希望は必ずしも一致せず、衝突や混乱もあるだろう。カリスマ的な主宰が牽引していく方法にも問題があるし、ひとつの集団を維持運営するにはさまざまな雑事も生じる。日大芸術学部演劇学科から誕生した劇団掘出者との出会いは今年の春『チカクニイテトオク』であった。それから7ヶ月、第5回公演の『ハート』は、この劇団が着実に成長している足取りを確信させるものであった。
☆今日みたこと、感じたことをたくさん書きたい、伝えたいのですが、むずかしい。お読みになっても意味のわからない箇所がたくさんあると思います。自分の筆の拙さがはがゆくてなりません。これからご覧になる方のために、このあたりからご注意を☆
白い壁が一面にあり、上手と下手に出入り口のようなものがひとつずつ。他には何もない。極めてシンプルな舞台である。公演チラシにも新作について具体的なことはまったく書かれておらず、観客はほとんど情報のないままに舞台に臨むことになる。女性が登場し、客席に向かってアダム・スミスの「共感」について感想を話す。自分には小学2年生の弟がいる。弟が大好きだ、お母さんも大好きで、自分は弟やお母さんの中に入って、同じようになれると言う。そして彼女の少し奇妙な癖を持つ弟や母親、弟の担任教師、友達や近所の人たちなどが次々に登場する。俳優は複数の役を兼ねるだけでなく、ひとりの人物を入れ替わり立ち替わり違う俳優が演じるのである。
たとえば眼鏡をかけることで、その俳優は少女になり、ズボンとシャツの裾をまくって少女の弟になり、エコバッグを下げると彼らの母親になる。男女の区別もなく、少年から老人まで。混乱は感じられなかった。目の前にいる人物は特定の誰かであると同時に、他の人物にもなりうるということだろう。
相手を理解する、相手の気持ちに共感することがどれだけ困難であるか、共感できたと思ってもたちまちそれは誤解であり、ひとりよがりの思い込みであると絶望させられる。しかし人は誰かと繋がっていなければ生きていけない。自分が傷つくのも嫌だが、自分が誰かを傷つけるかもしれないと思うと、もっと恐い。自分が人からどう思われているのかが気になってしかたがない。登場人物の言動はいささか自意識過剰のようではあるが、相手を理解したい、共感しあいたいのに、それができずにもがき苦しむ姿は痛々しい。チラシにある細い釘で形作られたハートは、傷つきやすく、傷つけやすい彼らの心を表わしたものだろう。
自分が好ましく思うのは、本作の形式が作者の手腕を見せることや、表現の手段や仕掛けに陥っていないところである。演じる俳優がめまぐるしく代わることや、男性が女性役をやったり、いきなり老人になったりするところで結構笑いも多かったが、客席の空気が次第に張りつめてくるのがわかる。この作品はここで終わるものではないと思う。言い換えれば作者の思いはまだ続いている。劇団の名前の通り、自らの思いをさらに掘り出し、さらにみる者の心の奥底からももっと掘り出してほしい。
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