*椎名泉水作・演出 公式サイトはこちら 神奈川県立青少年センター多目的プラザ 25日で終了(1,2,3,4,5,6,6`,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19)
ホームグラウンドだった横浜相鉄本多劇場が昨年晩秋に閉館し、これからの活動を案じていたのだが、春の『バルタン』につづいて神奈川県立青少年センター多目的プラザで公演が行われた。アクセスが若干不便であることや、どの駅からもそこそこ距離があり、しかも急な坂の勾配、暗い夜道など難点はいくつかあれど、よい舞台に出会いさえすれば、じゅうぶんクリアできるだろう。
会場が演劇の上演にぴたりであるかどうか、正直なところ微妙な印象ではある。しかし客席が可動式なので、いろいろな試みが可能であるし、会場に入って椅子にかけたとき、心身に違和感はない。これから何度も公演を行うことで演じるほうも見るほうも会場の空気になじみ、演劇にふさわしい空間に変わっていくのではないだろうか。
今回は演技エリアを斜め二方向から見る形に客席を設置した。中央に出入り口があり、その壁と床には、夥しい古新聞紙が貼り付けられている。テーブルに椅子が数脚あるだけだ。これまでのstudio saltの舞台を思い出すと、抽象的な舞台美術である。
18歳の高校生だった男女が、40代になった。その年月のあいだに失ったもの、得たものは何か。矢作哲也と野呂鉄也は幼なじみだ。哲也は見た目も格好良く、彼女もいる。鉄也は正反対だ。哲也は男らしくなれるようにと鉄也にボクシングを教えてやり、レッスン料をもらっているが、これは体のいいかつあげであり、いじめである。そして哲也は人目を引こうと危ない真似をして大けがをし、全身不随で眠りつづけている。介護する母親も次第に年老い、同居の弟も兄を持て余す。同級生たちは年に一度訪ねてくるが、結婚生活に行きづまったり、哲也のけがに負い目を持っていたりなど、それぞれに複雑である。
おなじみの劇団員に加え、昨年秋の『柚木朋子の結婚』で母親を演じた内藤通子、数年前の『八〇〇中心』に出演した環ゆら、さらに新しい劇団員も出演して、良好なチームワークが察せられる座組みである。
演劇の観客は想像力豊かであり、へんな言い方になるが「おりこうさん」だと思う。「おれはデンマークの王子ハムレットだ」という台詞を聞いて、「うそ、日本人のくせに」などと思ったりはしない。
『蒼』の冒頭は、主人公が18歳の高校生だったある日の場面にはじまる。実年齢ではしっかり中年の俳優が高校生を演じるのだ。俳優は鬘や化粧に特別なことはしておらず、テンションの高さや舌足らずな口調で役の年齢を示す。それでもやはり不自然は不自然だ。だが「おれって18歳じゃん」と言われれば、不自然なのは承知で「そういう話なのか」と納得し、そこからどのような展開になるのかを見守る。演劇だからこそ、いわゆるリアリズムを飛び越え、演劇ならではの旨みを作り出すことができるのだ。
たとえに持ってくることが適切かどうか迷いはあるが、文学座の『女の一生』(森本薫作)を考えてみよう。ヒロインだけでなく、登場人物すべてが数十年間の経過を一人一役で演じる。白髪のかつらに入念な化粧、動作も台詞の言い方も年相応に演じる。これはもう有無を言わせぬ新劇のリアリズムであり、杉村春子に象徴される文学座の伝統が、「こういうものなのだから、変だなどと思ってはなりません」的な権威のオーラを放っていて、観客はぐうの音も出ないのだ。
しかし今回の『蒼』は、これと同じところを狙った作品ではないところに魅力があり、同時にむずかしさがある。どこに、どのように少年らしさを見せるのか。しかも今回過去と現在を行き来するのは、哲也と、彼と同じ名をもつ鉄也の二人だけである。二人のテツヤが物語の構成を担い、作者の意図するところ、作品の魅力の核となる。中年と少年の場が行き来するとき、不自然や違和感を演劇的効果、魅力にどうすれば転化できるか。状況によっては、敢えて不自然で無理が感じられるほうがより効果的な場合もあるだろう。
哲也はからだは中年になったのに、精神は高校生のままである。しかし同級生たちは心身それなりに年を重ねている。母親も弟も同様だ。ここに歪みが生じ、彼らは否応なく過去と向き合い、いまとこれからを考えざるを得なくなるのである。
全体的に俳優の演技、造形が戯画的に感じられた。たとえばタクシー運転手役の東享司は、終始おどけた口調や動作を繰り返す。その内容がいい加減親父ギャグであることもさることながら、いささか「痛い」印象なのである。そういうところを狙った人物なのかもしれないが、彼は終盤で礼子に対する変わらぬ恋心を打ち明ける場面もあり、ただのお調子ものではない。また東はもっと抑制した複雑な表現ができる俳優であると思う。この作品を持ちだすのは自分でも「またか」と思うが、2007年上演の『7』(6,6`)において、職場の仲間たちのことをもっともよく知る兄貴的なところもあり、しかし相手がはっきりと訴えられない微妙ないじめを巧妙に行う人物を過不足なく演じていたことが忘れられない。
介護ヘルパー役の山ノ井史は、表面は人当りよくにこやかにしているが、なかなか油断のならない人物を演じている。表情、声の調子をわずかに変えるあたり巧く作っているが、彼ももっとできる俳優ではないか。
そのなかで内藤通子の自然な演技は安定感があり、こちらもリラックスしてみることができた。恋人がいることが示されるあたり展開が気になったが、後半の場面でもう終わったと台詞だけで知らされることにも納得できる。お母さんがそう言うのなら・・・という気にさせられるのだ。
細かいことを言えば、哲也が寝たきりになってから同級生たちは毎年彼の家に集まっていたという。なので、前半にヘルパーが「おむつの補充しておきますね」という台詞に、「おむつか・・・リアルだな」という反応はやや不自然だ。ずっとそうだと知ってはいたが改めて、という思いがあればちがう台詞があると思う。
本作のポイントは、冒頭に示された過去の一場面が、終盤になってもう一度出てくるところである。しかも二度めは冒頭の再現ではなく、危険な真似をしようとしたのが哲也ではなく、鉄也になっている。どちらが真実なのかは明かされない。過去場面が二度めに出てきたとき、真実はどちらか、それがどう明かされていくかに観客の興味は掻きたてられ、それに応えるごとく二人のテツヤの攻防が描かれることを期待する。作家はそうしなかった。その結果、観客に想像の余地を残し、謎解きに終始することで物語が凡庸になることが避けられた。
戯曲、演出ともに、少しずつ緩みや隙があることは残念だ。しかしstudio saltの舞台、客席の温かさはいつも通り、いや、いつも以上であることがほんとうに嬉しい。単に知り合いや身内のお客さんが多いだけなら、この雰囲気を作りだすことはできないだろう。studio saltの舞台を楽しみに待つ人、これからの活動に期待する人の存在があり、それに応えようとする作り手の姿勢があるからこそだと思う。
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