都内某所にて、東京乾電池の加藤一浩作・演出の『雷鳴』の試演会が行われた。11月の月末劇場公演を来週に控えており、「雷組」「鳴組」の2つの組み合わせによって演じられる。その両方をみることができた。演技スペースは狭く、音響こそできないが照明はかなりいい精度で調整可能であり、稽古も終盤に入った段階の完成度の高いものであった。
加藤一浩の作品はこれまで3回みているが(1,2)、最も完成度の高い作品と評されている『黙読』がいまだにしっくりせず、ブログ記事も書かずに逃げている。戯曲を何度も読んだのだが、そこから感じ取れるものと、実際の舞台に浮かび上がっているものが、自分の中で繋がらない。今回の試演会に足を運んだのは、早くも苦手意識を持ってしまった加藤一浩作品にもう少し近づきたかったからである。
俳優の組み合わせが違うと、こうも印象が変わるものかと驚いた。同じ台詞、同じ話なのに、俳優のしゃべり方、佇まい、表情やその人がもともと持っている雰囲気によって、どこか異質な空間での会話に聞こえたり、日常に近いやりとりに見えたりするのである。
新作をみにいくとき、チラシやHPにストーリーや登場人物関係などがある程度知らされている場合がある。詳しくなくても「今回は恋愛話」だとか、「主人公は引きこもり」など。しかし加藤の作品を考えると、「こういう話」とも「こんな人が出てくる」とも何とも言えないのではないか。
この感覚は、出演俳優の1人が「加藤は、人と人が舞台にいて、そこで生まれるものを描こうとしている」と実に的確な解説をしてくれたおかげで、より鮮明になった。その割に正確な言葉を覚えていなくて申しわけないのだが、設定の奇抜さや奇妙な演出に走りがちな若手劇作家のなかで、加藤が異彩を放ち、乾電池の俳優の肉体を通して独自の世界を構築しつつあることの証左であろう。
実に貴重で贅沢な時間であった。戯曲があって俳優がいて、舞台に立つ。それをみている観客がいる。そこに生まれるものを見逃さず、感じ取りたい。演劇とは何だろうか、どうして自分は演劇にこだわり続けるのだろうか。毎週のように観劇を続けている「すれっからし」の観客を、ふとゼロ地点に引き戻す。加藤一浩にはそんな力があるのかもしれない。
加藤作品の最初は不思議に思えたあの「間」が、劇場では温かく感じられるところに魅力を感じています。
「人と人が舞台にいて、そこで生まれるものを描こうとしている」のが詳細なト書きだったのですね。
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戯曲の台詞やト書きは、ある意味で俳優や演出家を「縛る」ものですが、あの試演会をみていると、もしかしたら「解放する」役目もあるのかと思わされました。限りなく本番に近い稽古に立ち会えたこと、幸運でしたね。