因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝公演 『炭鉱の絵描きたち』

2016-06-23 | 舞台

*リー・ホール作 丹野郁弓翻訳 兒玉庸策演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 26日で終了1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22

 映画『リトル・ダンサー』の脚本家リー・ホールの作品。1930年代から第二次世界大戦が終わったあとまで、イギリスの炭鉱町に生きる人々のすがたを描く。炭鉱労働者の画家集団である「アシントン・グループ」の実話がベースである。まったくの門外漢が、何らかのきっかけであることに興味を抱き、次第にのめりこんで人生が変わっていく様相というのはまことに演劇的だ。どんな出会いがあり、それまでの価値観をゆすぶられ、迷いながらあるいは猪突猛進に生きる様子、周囲の人々のとまどいなど、とても魅力的な題材である。

 絵画など見たこともない炭鉱の男たちのところに、若い美術教師がやってくる。炭鉱労働者の自己啓発、教養の取得のために作られた教室の指導者として、炭鉱会社に招かれたのである。知的エリート、ハイソな青年に対し、小学校を卒業してすぐ働きはじめた男たちは意識も感覚も大きくちがう。ぎくしゃくしたやりとりののち、「絵画を鑑賞する」から、「自分で描いてみる」に転換し、絵を描くようになった男たちがどのように変容していくのかを、第二次世界大戦をはさんだ世相の移り変わりとともに描く2時間15分である。

 第2場、彼らは版画の課題を提出し、つぎは絵具を使った絵を披露する。お互いの作品を容赦なく批評したり、それに弁明したり、教師が助言したりといったやりとりはなかなかおもしろい。しかしながらどうしても違和感が湧いてくる。彼らの作品というのが、どれもこれもみごとな出来栄えなのである。絵画などろくに見たこともなく、まして描いたこともないのに、どうして最初からこのような絵が出てくるのだろう。
 画材は持っていたのか、自分たちで新たに買い揃えるゆとりがあるとも思えず、ならばうちのなかにあるものを工夫して、あるいは何となく手にしたのか。デッサンや線描の練習をする場面もない。バラエティ番組「アメトーーク!」の「絵心ない芸人」の影響であろうか。自分は序幕で早くもつまづいた。

 自分たちで絵を描く体験が、今度は絵の鑑賞にどうつながり、両者によるどのような変化をもたらすかが次のポイントである。芸術の作り手であることと、受け手であること。相対する立場である。この点に関しても、抽象画に対して、仲間たちのなかでもすぐれた画才をもつオリヴァーが見事な批評を聞かせる場面があって、本作の見せ場のひとつである。しかしむしろそこに至るまでのプロセス、彼が心に浮かんだことをことばにしていくところを知りたいのだ。

 炭鉱で働く人々を描いた傑作として、ユネスコの世界記憶遺産に指定された山本作兵衛の炭鉱記録画がある。決して本作に山本作兵衛の英国版を期待するわけではないが、やはり彼らが示す達者な絵画や批評のことばの唐突感は否めない。このようなつまづきによる困惑を常に抱えながらの観劇となり、物語後半、前述のオリヴァーと、彼に経済的支援を申し出るブルジョア夫人、美術教師とのやりとりをじゅうぶんに受けとめられなかったのは残念であった。

  初日に観劇のはずだったのだが、1幕途中で劇場の火災報知器が鳴り、中断のあげく中止になって、仕切り直しの再観劇であった。作り手側はあらゆるトラブルを想定して万端の準備を整える。観客も体調を整え、遅れないように劇場へゆく。しかし人智を尽くしてなお防ぎきれないこういったハプニングも起こりうるわけで、無事に幕が開き、何事もなく終わるということは決してあたりまえではなく、何らかの力に守られた「奇跡」であることを思い知ったことで、長く記憶に残る舞台となるだろう。

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