因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座9月アトリエの会 『弁明』

2016-09-08 | 舞台

*アレクシ・ケイ・キャンベル作 広田敦郎翻訳 上村聡史演出 公式サイトはこちら 文学座アトリエ 21日まで
 演技スペースを客席が馬蹄形に囲むかたち。主人公クリスティン(山本道子)の家のリビング、キッチンが舞台である。キッチン部分は流しやオーブン、たくさんのグラスがぶら下がった食器棚などもリアルに作り込んであるが、壁は素通し、屋根も骨だけで、抽象的というより、劇作家によって書かれた物語を演出家が舞台に立ち上げ、俳優によって行われる実験的な試みを見学するといった雰囲気である(長田佳代子美術)。

 山本道子さんという俳優の質実な力はもっと評価されてよいと思う。ちょっぴり太めの体型や、愛敬あふれるお顔立ちなど、ともすれば、有無を言わさず噂好きのご近所さん、三枚目、おどけ役が回って来ることが多かった。だがSMAPの草彅剛が主演した『僕の生きる道』(橋部敦子脚本 2003年フジテレビ)で、末期がんに冒された主人公(草彅)の母親役がいまだに印象に残る。明るく優しい母親ではあったが、決してオーバーアクションをしなかった。主人公が電話で母に病気を告げる。台詞は音楽がかぶさって次第に聞こえなくなり、何を言っているのかはわからない。しかし受話器を持った母親の背中がだんだん丸く、小さく縮んでゆく。顔も悲しげに歪むが、アップにはならなかった。まさに背中で語る演技。
 なので2005年『風をつむぐ少年』(このブログのいちばん最初の記事!)で、娘を亡くした母親が、加害者の少年と話す場面の静かな演技を見たときは大変嬉しかった。大切な娘の命を奪った相手に何をしてほしいか。考え、迷い、悩みながら、不思議な申し出をする。あのときの言葉を選び、考えかんがえしながら話す山本の抑制した口調や表情が忘れられない。

 さて『弁明』である。母親クリスティンの誕生日を祝おうと、久しぶりに家族が集まった。息子はパートーナーを伴ってやってくる。はじめのうちはなごやかにしているが、何かのはずみで諍いが始まり、止めようとするパートナーの努力も裏目に出て、それまでの鬱憤、恨みつらみが爆発。さらに長年の秘密も暴露され、祝いの宴がめちゃくちゃになってしまう、というのは、ありがちな話である。

 だがクリスティンは男性優位であった美術史研究の分野で成功を収め、「弁明」というタイトルの回顧録を出し、かつて反戦運動、労働闘争に参加してきた過去を持つ。毒舌の皮肉屋。嘘やお世辞は言わず、初対面の長男のパートナーに対しても遠慮会釈ない振る舞いをするあたり、なかなか厄介な女性である。長男のピーター(佐川和正)は合理的な銀行マン、パートナーのトルーディ(栗田桃子)は熱心なキリスト教徒である。彼女が選んだ奇妙な誕生日プレゼントを巡ってひと悶着。次男のサイモン(亀田佳明)はなかなか現れず、女優である恋人のクレア(松岡依都美)がサイモンを連れてこずに先にひとりでやってきたことがクリスティンは気に入らず、何度も執拗にそれを口にする。

 前述のような舞台装置のなかで交わされる人々のやりとりは、台詞の一つひとつ、表情のちょっとした変化なども見逃せず、休憩を挟んで2時間40分の長丁場をそれほど長いと感じさせない。第二幕になってようやく現れるサイモンが、少年時代の辛い出来事を母に告白しようとするが、すべてを打ち明けないまま立ち去ってしまう。クリスティンと長年親交のあるヒュー(小林勝也)の若き日の写真を見たサイモンは、何を思い出したのか。ヒューが同性愛者であるらしきことはさらりと語られるが、サイモンの心の傷に関わってくることなのか。

 人々の心の闇が明かされ、ぶつかりあったのちに互いを理解し、和解への道が開けるのならば、誕生パーティの大騒ぎはまことにありきたりで、しかし観客にはある種のカタルシスと安心感を与えるだろう。『弁明』は、主人公のクリスティンのように手ごわく厄介だ。観客をそう簡単に納得させない。上演台本を読めば、何度も観劇すればもっと理解できるかといえば、必ずしもそうではないと思われる。むしろそこに本作の魅力があり、観客の幸福があるのではなかろうか。

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2 コメント

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刺激的! (しのらん)
2016-09-16 12:23:15
先日、観劇しました。
見応えのあるタフな作品。カタルシスに頼らず、情緒に傾かず。
ホームドラマ仕立てで間口を広くしつつ、時代の流れや世代から世代への受け渡しを描いている。
キャリル・チャーチルを思い起こさせる作劇ながら、作者は男性なんですよね。
回顧録を上梓してはいても、ヒロインは過去の人ではなく、明日クルド人支援のデモに行くフェミニストというのが一興。
その彼女を「私は見ていた」「私はそこにいた」と理解し続ける友人が、やはりマイノリティのゲイであるところに膝を打つ感じでした。
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カタルシス (因幡屋)
2016-09-16 23:58:27
しのらんさま、
当ぶろぐへのお越しならびに鋭いコメントをありがとうございました。緻密な計算のもとに隙なく構築されていますが、生身の人間が演じることによって生じるずれやほころび、余白が、見るものにありきたりではない、まさに演劇的なカタルシスと情緒を与えるのかもしれません。クルド人支援のデモについては聞き逃していました。ご指摘感謝です。
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