因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

コマイぬ ろく吠えめ『親戚の話』

2015-10-03 | 舞台

*北村耕治作 田中圭介演出 公式サイトはこちら 10月4日まで鷺ノ宮/古民家シェアサロンasagoro
 7月に『ありふれた話』で味わい深い劇世界を見せた猫の会主宰の北村耕治が、早くも書き下ろしを提供。鷺ノ宮の公演のあとは、仙台、石巻、岩沼でも公演を行う。

「コマイぬ」は、黒色綺譚カナリア派(現在活動休止中)に所属する俳優の芝原弘が立ち上げた個人ユニットである。2013年3月に南慎介作・演出の「花束を渡すのは誰だ?」で旗揚げし、以後オリジナル作品から岸田國士の『葉桜』、『命を弄ぶ男ふたり』、『驟雨』の3本立てなどの古典まで、おもに二人芝居、もしくはごく少人数の作品を上演してきた。そしてコマイぬはもうひとつ、大切な目的を持つ。東京公演の作品をすべてレパートリーとし、芝原の出身地である宮城県・石巻での定期公演において、「上演候補作品とする」(今回の公演チラシより)こと、将来的には石巻市での定期公演、さらには「石巻での演劇の常在を目標とする」(同)ことである。

「宮城県、石巻。世界でも有数の漁場を擁する水産都市として古くから栄えた土地。東日本大震災において甚大な被害を受けたものの数年を経た今、着々と復興が進められている」。今回の『親戚の話』冒頭のト書きである。
 初対面の人の出身地が東北であると聞くと、それだけでこちらの心には緊張が走る。実家は無事だったのか、家族は友だちはと、相手はさんざん聞かれ、答えてきたことに違いないのに、質問があふれそうになる。立ち入ったことを聞くのは失礼だ、いやでもまずは聞いておくのが礼儀ともいえる・・・などとにわかに心が乱れるのである。
 芝原弘が自身のユニット「コマイぬ」に込める思い、故郷で芝居をやりたいと思ったきっかけなどは、公式サイトの「ご挨拶」に詳しい。仲秋の夜、あたたかな雰囲気の古民家で開演を待ちつつ、それでもただのんびりと楽しく見ていられる芝居ではなさそうな予感も。

 結婚にまつわる厄介ごとのひとつが、つれあいの親戚とのつきあいであろう。親戚がおおぜいおり、しょっちゅう集まっては仲よく賑やかにしていても、嫁や婿など「アウェイ」の立場にしてみれば重荷であるかもしれない。逆に親戚つきあいがほとんどない場合、気楽ではあるがそれはそれでさびしいくもあろう。どちらにせよ、自分の育った環境とはまったくちがうコミュニティへ投げ込まれるのはそうとうなストレスであり、プレッシャーにはちがいない。

 本作には、まさにそのストレスとプレッシャーの渦中にあり、けれども健気に夫の勝利(芝原弘)の親戚になじもうとする妻の真由美(片岡ちひろ)と、彼女に親戚のあれこれを教えてやっている勝利のいとこの倫子(菊池佳南/青年団)の会話にはじまる。謎解きや若干サスペンス風の展開もあって詳細は書けないが、どこの地方のどこの親戚にもありがちな話をしながら、少しずつ震災を体験した石巻の特殊な事情や、さらにこの一族のとんでもない過去の事件へ急激に切り込んでいくあたり、北村耕治は冷酷なまでの筆の冴えを見せる。

 お芝居の台詞、演劇的な台詞というのは、どういうものを指すのだろうかと思うのである。たとえばひと月前に見た日本の30代公演『ジャガーの眼2008』は、ずっと憧れていた唐十郎の台詞を舞台で発する俳優たちの歓喜が爆発するようであった。テーマ音楽が鳴り響くなか、舞台中央にすっくと立つ平岩紙に照明が当たる。どれほど気持ちがいいだろうかと想像する。役者冥利に尽きる。そんな感覚であろうか。
 極端な例との比較になるが、『親戚の話』の台詞は唐十郎作品とは対照的だ。すべて日常会話のことばであり、テンポである。劇中音楽もなく、照明もそのままで、ふだんの生活の空気をもった古民家での公演だ。劇的とは言えない。劇場に観客がいるのは普通のことだ。しかし古民家の座敷に座布団や小さな椅子を並べて、同じく座敷で行われる芝居を見るという行為は、不自然といえば非常に不自然であり、演じる方もそうであろうが、見る側にも演技エリアがあまりに近く、自分たちもまた向こう側から丸見えであること、通常の劇場でないというだけで生じる居心地の悪さや、芝居の温度や湿感をまともに受けるのストレスもある。
 生活空間をそのまま使って、ごく自然な日常会話で行われる演劇だが、ある意味では非常に不自然な状況でもあるわけで、改めて「演劇とは何だろう?」という根本的なことを考えるのであった。

 いとこの倫子役の菊池佳南は、わけありで何をしでかすかわからない小悪魔、もっと言えば性悪を演じさせると天下一品の堂々たる演技を見せる。夫の故郷や親戚たちに戸惑っている真由美にいろいろと教えてやっているところからして、「何かある」と匂わせる。和やかな会話のなかに、「この家の黒歴史」、「(お互いの親の不倫のために)わたしもかつくんも地獄みたと思ってるから」、「やっぱりクソだったから。失踪した二人は」と、少しずつ情報を小出しにして、いとこ夫婦が動揺したり傷ついたりするのを楽しんでいるようなところさえある。

 しかしその一方で、片岡ちひろが演じた妻の真由美のことがずっと気になっている。気立てのよい器量よし、しかもそのことを意識して鼻にかけたところが微塵もない。いかにも育ちのよいお嬢さんの風情である。この女性なら、どこの家へ嫁いでもだいじょうぶと思わせる。倫子とは対象的な良妻賢母型である。ただ気になる台詞があった。石巻の町をみて、「十分、異様だなって思いました」、「そこで何か、おかしなことが起きたっていうことだけは分かるっていうか」の二カ所である。「異様」「おかしなこと」ということばは、震災の被害に対して適切であろうか。むろん真由美は自分の実感を述べたにすぎないが、被災地とそうでないところ、体験者と非体験者との温度差を示すことばなのか。真由美にしてはいささか無神経なことばづかいではなかろうか。倫子が「虫唾が走るんだよああいう女」というのは、こういったところに対してでもあるかと考えた。

 観劇後、上演台本を何度も読み返している。asagoroでの場面が鮮やかに蘇るいっぽうで、この作品はもっと大きな劇場、たとえばこまばアゴラ劇場やスズナリで上演されることや、ラジオドラマになってもおもしろいのではないかと、さまざまに想像して楽しんでいる。これから東北ツアーがはじまるコマイぬの舞台、たくさんの出会いがあることを願っている。

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