因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座アトリエ70周年オンライン企画vol.3 久保田万太郎編その参  『雨空』勉強会~成果発表

2020-07-05 | 舞台番外編
*久保田万太郎作 本山可久子指導・監修 公式サイトはこちら 6月27日公開 
 勉強会(その壱その弐)を経ての成果発表は、語り(ト書き)、お末、長平を前後半ダブルキャストで行われた。出演者は訪問着や浴衣を着たり髪を結ったり、「本番」の空気を纏って画面に登場する。

 幕開き、所在なげに三味線をつま弾くお末と長平のやりとりでは、歌舞伎や壮士芝居、女座長率いる旅の一座など、当時の芝居の様子が生き生きと語られる。長平(相川春樹)の名調子風の台詞に、お末(鈴木結里)のまことに短いひと言が絶妙な合いの手となって気持ちがよい。話の本筋から少し離れた長平という人物が観客を自然に導き、かつて彼が身を置いた一座の女座長の純愛の話から、心塞ぐまま結納を迎えるお末の心のうちが炙り出される様相が明確に伝わった。

 やがて訪れる姉のおきく(山崎美貴)が、幸三の話になってわずかに表情が変わるところ、幸三とお末がふたりきりになるあたりから、物語は核心に近づく。武田知久の幸三は若さゆえであろうか、案外明るく快活で、それだけにいっそう悲しみが漂う。後半のお末の「あたし、大切にしますわ」という伊藤安那の台詞は、本山の指導に「ひと文字ひと文字言うつもりで」の通り、しみじみと味わい深いものになった。互いに本心を打ち明け合ったそのとき、長平(後半・山森大輔)が酒に酔って戻ってくる。まことに無粋な再登場だが、お末と幸三には幕引き役が必要で、それを長平がするから多少なりとも和らぎが生まれるのかもしれない。

 お末が亡くなった父の湯呑で幸三に水を出してやる場面には、「このあたり、すべてたとへば兄に仕へる妹のうそのなき心もち。それに對して幸三にも、妹を見る兄の厚きいたはりあること」というト書きがあって、色恋とひとくくりにできないふたりの複雑な心模様が示されている。ここが読まれなかったのは少し残念である。また幕切れに振り絞るような声で「幸さん」と呼びかけるお末に、「(わざと何のこともないやうに)何だ、末ちやん。(お末のはうを見る)」のト書きをどのタイミングで言うかも難しい。読まなくてもいいのかもしれない。が、「わざと何のこともないやうに」が幸三がお末にできる最後の思いやりであるから、やはりト書きを聞いて、幸三の台詞を聞きたい。そして本式の上演ではこのト書きをひそかに心の中で響かせて、幸三とお末を見届けたいのである。

 台詞のはもちろん、ふとした表情の変化やしぐさ、からだの向きなど、画面に映るのはぎりぎり上半身までであるのに臨場感が増し、本式の舞台に近い緊張と万太郎戯曲の風情が生まれた。オンラインで公開された勉強会(当ぶろぐ記事)は2回だが、それに加えて相当の稽古が積まれたと察する。

 本番のあと、指導・監修の本山可久子が感想を述べ、「みんな役をみごとに自分のものにしていた」と安堵した様子。目上の人へのものの言い方、相手を思いやるが、それを相手に悟らせない、気兼ねさせないことなど、かつて龍岡晋から教わったことを「できなくてもいいから、こういう世界があったことを伝えておきたい」という願いが叶ったのではないだろうか。本作は100年前に書かれたものであるが、古い昔話だとは全く思えない。耐える女、それを知って退く男、ほんとうの気持ちを知りながら、敢えて言わない人(勉強会で質問があったが、長平は姉妹と幸三すべての事情を知っているというのが本山の見立てである)の短い物語は、今の時代でも演じる人、受け取る人の心を動かすものだ。勉強会に参加の俳優方と同じように、聴く側の自分にも大いなる収穫であり、『雨空』の続編『萩すゝき』を取り上げていただけないだろうかと、新たな願いが生まれるなど、爽やかな梅雨晴間のような一日となった。
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