因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

『4.48サイコシス』

2006-03-21 | 舞台
 *サラ・ケイン作 
阿部初美演出 翻訳・ドラマトゥルク 長島確 にしすがも創造舎
 題名の「4.48」は、作者のサラ・ケインがこの時刻になると目が覚め、覚醒した意識の中で本作を執筆したことに由来するという。彼女は本作を書き上げた直後、28歳の若さで自殺した。さまよう心を映し出しているかのような作品である。
 五人の俳優が出演するが、特に決まった役名もなく、ストーリーも掴めず、どこに視線をもっていけばよいのかすらわからない。全編がつぶやきのような散文詩のような中で唯一確かに伝わってきたのは、後半のある場面である。白衣を着た医師らしき男性(笠木誠)が患者らしき年配の男性(徳山富夫)のからだを客席のほうに向かせ、「お友達ならいるでしょう」と語りかける。このとき少し客席が明るくなり、「あ、わたしたちを『お友達』と見立てているんだな」とドキリとした。不安げな患者の表情。彼は「この人たちは自分の『お友達』だろうか?」と怯えているように見えるし、こちらも「お友達と思われても困るんだよな」と引いてしまう。
 医師はさらに「お友達に支えてもらうために、何を差し出しますか」と続ける。この台詞は冒頭にもあり(ただし女優が演じた)、「友達」「友人」と言わず「お友達」ということ、とってつけたような慇懃な「お」の字はじめ、「お友達なら」という表現には、「家族や恋人はいなくても、あなたにだってお友達のひとりぐらいはいるでしょう」というニュアンスがある。続く「お友達に支えてもらうために~」には、さらに嫌な気持ちにさせられる。どう嫌なのかはうまく言えず、だからといって不愉快な気持ちにはならなかったが。

上演の途中で退席する観客もあって、この作品の一筋縄ではいかない性質(ここもうまく言えない。ある意味魅力であろうが)を実感。自分は爆睡覚悟であったが、幸いにもわりあいすっきりした心持ちで過ごすことができた。終演後おもてに出るとぼんやりとした春先の午後であった。
 
何度もみれば少しは理解できるようになるかというと、そうではないように思える。理解でも解釈でもなく、その世界に入り込む糸口を掴めるかどうかだろう。人の心の中はよくわからない。いや自分の心さえも。理解できたと思った瞬間、それは安易な思い込みや誤解かもしれないのだから。



 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« チェルフィッチュ『三月の5... | トップ | まほろば企画『にんじん』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事