因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

まほろば企画『にんじん』

2006-03-28 | 舞台
*ジュール・ルナール作 岡橋和彦演出 関内ホール 
 横浜アートLIVE2006参加作品
高校生のとき、劇団東京小劇場公演の『にんじん』をみたことがある。小説の『にんじん』(岸田國士訳)は乾いた文体で、そっけないほど淡々と描かれているが、お芝居の『にんじん』(これも岸田訳)は客席が笑いに包まれ、生徒よりも先生方のほうがたくさん笑っていたのを思い出す。大学生になってから同じ舞台をもう一度みる機会があり、今度はなぜか終幕泣いてしまった。理由はいまだにわからない。
 
それからまた長い時間がたって、『にんじん』と再会した。翻訳や脚本が誰の手によるものかは明記されていないが、自分の手元にある東京小劇場公演の台本と比較してみると、台詞の細かい言い回しは多少変化しているものの、話の内容や流れは同じである。今回の公演のほうが、より耳に馴染みやすい台詞になっていると感じた。

はじめて『にんじん』に出会ったときに比べて、社会の状況や家族のありようは大きく変わった。世の中は便利にはなったが、それだけ人が幸せになっているかと考えると甚だ疑わしい。『にんじん』をみてもわかるように、家族という最小の単位、血のつながりと愛情の絆で温かく堅固な交わりがあるはずの場所でさえ、健やかに営むことができないのである。母親の冷たい仕打ちに絶望したにんじんは、父親に「家を出たい」と告白するが、父親も母親も孤独な心を抱えていることを知って、家に留まることを決心する。家族の中で最も小さく弱い者が、いちばん重い荷を背負うことになる。

舞台の印象が少しも古びておらず、登場人物の言葉のひとつひとつが胸に響く。丁寧な演出と誠実な演技によるものだろう。特ににんじん役(劇団民藝/藤巻るも)は、女優による少年の造形のパターンに陥っておらず、新鮮。残念だったのは母親役(劇団民藝/戸谷友)である。雰囲気はずばり冷たく意地悪な母親なのだが、台詞と動作がいささか類型的で、あまり恐くない。出番も少なく、それだけ辛抱の多いむずかしいポジションなのだろう。開演が告げられてから実際に話が始まるまで、実に15分あまりもチェンバロ演奏があることにも驚いた。いい曲ばかりなのだが、4曲も続いては。

だがこの作品の力はそれらを補ってあまりある。長年連れ添った夫婦や血のつながった親子ですら充分に心を通い合わせることができず、それでもなお生きていかなければならない悲しみが描かれているが、見終わったあとに(今回は後半から涙止まらず。なぜだろう)優しい心持ちになっていることに気づく。辛い状況をすぐに解決することはできない。もしかしたらずっとできないかもしれない。しかしあの親子は昨日に比べれば少しは互いの心に寄り添うことはできる。そうであってほしい。観客がそう願えるところに、微かな希望の光が感じられるのである。

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