*前川知大作・演出 市川猿翁スーパーバイザー 公式サイトはこちら 新橋演舞場 29日まで その後大阪・松竹座で上演
これがはじめてのスーパー歌舞伎観劇となった。とくに避けていたわけではないが、やはり本家本元の歌舞伎のほうが好きであるし、もうひと押しアクションを起こせなかったのである。今回も友人から誘われてようよう腰があがった次第。
Ⅱ(セカンド)と銘打つからには、市川猿翁がつくり上げたスーパー歌舞伎の単なる続きではなく、それを乗り越えんとする気概をもっての上演と想像する。イキウメ主宰の前川知大の作・演出は、以前彼の書いた現代劇に出演した市川猿之助の依頼であり、その舞台で共演した佐々木蔵之介の出演も、猿之助の肝入りで実現したとのこと。ほかにも若手の福士誠治、ベテランの浅野和之も加わった。
歌舞伎の舞台に現代劇の俳優がともに立つなど想像したこともなく、いったいどうなることかと心配ですらあったのだが…。
結論から言うと、開演前のあれこれはすべて杞憂であった。開幕してすぐ「口上」がはじまったのには驚いたが、役者各自自分が何の役を演じるかということを語ったり、上演がかなったいきさつなどがわかりやすく語られるので頭の整理になり、観劇のウォーミングアップとして効果を上げていた。
ひとりだけ「自分は浅野ではない。鳴子(役名)だ」と頑なに口上を拒否する浅野和之演じる祈祷師の老婆がおり、口上という歌舞伎はじめ古典芸能特有の慣習への皮肉(といっては言い過ぎか)をちょっぴり滲ませながら、役者本人の素と演じるときの顔、役柄そのものの存在など、複雑な構造をさらりとみせる。
現代劇の俳優3人に、不自然な印象はまったくといってよいほど感じなかった。そうとうな稽古を積んだと察せられるが、それは無理やり歌舞伎風の台詞術や所作事を会得するためではなく、歌舞伎俳優たちと同じ板の上に立って違和感なく劇世界をつくるための呼吸のしかたというようなものではなかろうか。
見栄を切る箇所も少なからずある。佐々木蔵之介は猿之助から見栄の所作を教わったものの、基本的に「気持ちでやればいい」と言われたそうで、たいへん好ましい演技であった。ますますファンが増えたのではなかろうか。福士誠治もどうようで、出番の少なかったのは残念だった。
浅野和之は舞台の進行役らしい場面もあるのだが半端であり、しかしそこが逆におもしろいつくりになっている。市川猿弥や笑也はじめ澤瀉屋の面々とも違和感なく・・・というよりぎくしゃくしたところもたしかにあって、それすらも今回の舞台ならではのおもしろみに転化させていて、これはまったくもってお見事である。
歌舞伎役者が現代劇に出演することはめずらしくない。しかし逆はぜったいにないだろう、というより想像したこともなかった。しかしそれが実現したのだ、それもこんなに力強く熱気あふれる舞台に。
スーパー歌舞伎の舞台づくりは、現代劇と比べて戯曲の執筆と演出と演者の役割分担が明確に分かれているものではなく、すべてのスタッフが稽古場で試行錯誤しながらどんどん替えていくものではないかと想像する(公演パンフにおいて佐々木は「稽古場ではものすごいスピードで戯曲が立ち上がっていく」と驚嘆していた)。なのでどこまでが劇作家の書いた台詞であり、演出家の指示であったかはわからないが、作り方や経緯ふくめて本作の魅力だと考える。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます