* 瀬戸山美咲作・演出 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19) 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 8月4日まで 今回の新作のベースになったリーディング『ファミリアー』も再演される。
実際に起こった事件をモチーフにするのが瀬戸山美咲の劇作の大きな特徴だ。今回はこの10年ほどミナモザの舞台写真の撮影をしておられる写真家・服部貴康さんの経験の舞台化に挑んだ。1991年3月、早稲田大学の学生だった服部さんは、友人たちとパキスタンのインダス川をカヌーで下っていたとき、現地の強盗団に誘拐された。44日間の拘束ののち解放。帰国した彼らを待ちうけていたのは「無謀な冒険のために多くの人に迷惑をかけた愚かな大学生たち」という報道が引き起こしたすさまじいバッシングであった。
しかし卒業後、服部さんはかつて自分を傷つけたマスコミ界にはいり、週刊誌のカメラマンとしてスキャンダルを追う立場となった。
こまばアゴラ劇場は通常なら入って奥が舞台だが、今回は入って右が舞台、左が客席、劇場を横方向に使うつくりになっている。中央に円形の演技エリア、上手に小さなテント、下手には棚やテーブルなどが置かれている。成田空港での記者会見場、満員電車から降り立ったホーム、出版社の一室から、インダス川、拘束されているどこかの場所などなど、場所も時間も目まぐるしく変わり、抽象と具象が入りまじる。服部さんは劇中で坂本という名に変わり、劇団チョコレートケーキの西尾友樹が通して演じる。そのほかの俳優は友人や同僚、強盗たちなど複数の役を演じ継ぐ。
彼らと彼らの敵が織りなす逃げ場のない2時間だ。
強く印象に残った場面をふたつあげる。
まずふたりの大学生(西尾友樹、山森大輔)がバッシングの発端となった記事を書いた週刊誌記者(大原研二)と、記事のなかで虚偽の発言をした女性ジャーナリスト(菊池佳南)と対面する場面だ。大学生のまっすぐな思いがことごとく折られ、退けられてゆく。相手が目の前にいるのに、彼らはまるでいないかのように扱われている。あいだに立つ日本大使館職員(中田顕史郎)にもなすすべがない。
会話はどこまでも噛み合わず、彼らの気持ちは相手に伝わらない。いやほんとうは伝わっているかもしれないのだが、「敵」はわからないふりをして流そうとしている。週刊誌記者が顔色ひとつ変えず、いつのまにか話をすり替えてしまうところや、女性ジャーナリストの弁明にもならない言いぐさや頑なな顔つきなど、胸が悪くなるほどであった。テンポのよりやりとりや、生き生きとした対話が書けるのは劇作家の魅力のひとつだが、噛み合わない会話をこれほど容赦なくみせるというのも大変な力量であろう。
ふたつめ。
バッシングは彼らだけでなく、家族にも及んだ。坂本の母親あてに届いたある女性からの長い手紙が読みあげられる場面だ。息子のしたことへの批判をひとしきり、そして最後は「自分の身内には早稲田大学出身者がこれだけいる」と、「義理の弟早大理工学部、義理の甥早大政経学部」などと、まるで呪いの言葉のように読みあげられる。台詞は記憶によるものなので正確ではないが、いつまで「早大卒リスト」がつづくのかと背筋が寒くなる。手紙の主本人が早稲田出身ではないらしいが、それだけに「私の身内にはこんなに早稲田がいる」ということを彼女はことさら自慢にしていたのだろう。彼らによってその誇りが傷つけられたのである。
その人にとっての事実が、必ずしも他の人と共有できるものではないこと。頭ではわかっているが、その様相をまざまざと見せつけられるとき、ざらつくような不快感と絶望感に襲われる。ふたつの場面には瀬戸山美咲の劇作家としての筆の強さ、確かな演出が顕著に表れており、演じる俳優もまたそれに応える演技をみせている。
一昨年秋、震災と原発事故の衝撃に右往左往する自分自身を舞台の主人公に据え、「ドキュメンタリー演劇」の看板を背負って上演された『ホットパーティクル』は、社会派の劇作家として瀬戸山美咲の名を広く知らしめた。
初日開けて以来なかなかの好評を博している『彼らの敵』を、自分は『ホットパーティクル』男性版の印象を受けた。名前こそ服部から坂本に変えてあるものの、身近な人物を主人公にして、実際のできごとを題材にしていることや、抽象と具象が入り混じり、俳優が複数役を演じることなど、演出面においても似ているところが多い。
何を題材にするか。場合によっては 自分自身が舞台にのる可能性もある。それはいい。
問題はその扱い方である。
『彼らの敵』当日リーフレット掲載の挨拶文において、瀬戸山は「最初は完全なドキュメンタリー作品として仕上げることを考えていたが、演劇にするからには演劇にしかできないことをしようと、新たな物語とし描かせていただいた」と記している。
ここにある「完全なドキュメンタリー作品」というものがどのような作品を考えていたのか、自分にはよくわからない。たとえば映像において服部さん自身に出演してもらい、当時関わった人のインタヴューで構成する番組であればドキュメンタリー作品であるといえよう。しかしそこにも作り手の作為や意志が働くわけであるから、「完全な」とは言い切れない。
何を舞台にしたいか。どのように描きたいかは、劇作家によってことなる。当然のことだ。
自分が引っかかるのは「ドキュメンタリー演劇」あるいは「ドキュメンタリー作品」ということばである。「ドキュメンタリー演劇」が出てきたとたん、自分はある種の警戒心、違和感をもつのである。佐賀県で小学五年生の女の子がカッターナイフで同級生を刺殺した『デコレイティッドカッター』。振り込め詐欺に携わる青年たちを描いた『エモーショナルレイバー』。いずれも現実の事件を題材にしている。しかし『ホットパーティクル』以前のこれらの作品を、自分はドキュメンタリー演劇だと思ったことは一度もない。
ああやはり『ホットパーティクル』だ。どうにかの決着をつけたと思っていたが、自分はまだ『ホットパーティクル』を乗り越えていなかったのだ。
収拾がつかなくなったのでひとまず筆を置く。
少し頭を冷やしたほうがよさそうだ。
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