*井上ひさし作 栗山民也演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 8月11日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16)
井上ひさしの代表作として、さまざまな配役で繰りかえし再演されてきた作品だ。こまつ座100回記念公演となる今回は、かつて稲葉鐄を演じた三田和代が夏子の母お多喜をつとめるのが唯一経験者であるほかは配役を一新した。特筆すべきは1984年こまつ座の旗揚げ公演から長きにわたり、けがによる休演が一度あった きりで一貫して新橋耐子が演じてきた「花蛍」が、ついに新しい女優に手渡されたことだ。担うのは若村麻由美である。新橋耐子の一挙手一投足が記憶 にしみついているから、これは観客にとっても挑戦だ。
再演にはいろいろな型がある。キャスト全員を同じままで上演する。あるいは一部に新顔を加える。そしてキャスト全員を一新する。
本作の場合は花蛍の新橋耐子が軸となり、主人公の夏子や邦子、母のお多喜などが変わろうと不動の劇世界を構築してきた。新橋の花蛍が登場した瞬間、思わず「待ってました!」と大向こうをしてしまいそうなほどの当たり役である。余人をもって代えがたいとはまさにこのことだ。
しかしこれにはやはり長短があり、誤解を恐れずにいえば、ほかの配役がどれほど変わろうと、舞台の空気はほとんど影響されないのである。これまで数回みた本作の上演で、「この人が演じたあの役が忘れられない」というものがあるかと考えてみると、やはり花蛍さんがあまりに強烈なために、思い浮かばない。今年の冬に亡くなったお多喜役の大塚道子だろうか。 みなさんほんとうに誠実に心を込めて演じておられることはわかっているけれども。
今回は演出も栗山民也の手による新しい舞台となった。これまでの木村光一演出を思い出してみると、新演出は小ネタやギャグ風の味つけが影をひそめ、すっきりとしたシンプルなものとなった。
たとえば盆礼に訪れた花蛍を夏子が団扇で仰いでやると、彼女は幽霊なので団扇の風にからだがしなり、歌舞伎の女形顔負けの海老反りになってしまう。日本舞踊の心得がある新橋ならではの場面であり、客席は拍手喝采の爆笑となる。若村麻由美も日舞の名取であるから、とうぜんこの場面があると思っていたが、気がつけばスル―していた。そしてないからといってことさらもの足りないとも思わなかったのである。同様の例はここだけではない。
客席を沸かせる工夫や熱意はときに余計な小芝居になり、感興を削ぐ。
今回の演出のほうが潔く、好ましい。
いっぽうで、俳優陣の演技はまだこなれていない印象である。
人物のやりとりがテンポよく軽快にというよりは、いささか前のめりの急ぎ足であった。夏子役の小泉今日子は息が漏れたり、台詞の区切り方がときどきおかしく、息つぎがうまくできないのか、息が長くつづかないのか、いずれにしても台詞をしっかりと客席に届かせるのに無理のあるところが散見している。また稲葉鐄役の愛華みれは、台詞が早すぎてじゅうぶんに聞きとれない。
また演技の方向性が一致していないためのぎくしゃく感がある。たとえば後半、花蛍の恨む相手がまわりまわって自分だと知らされた夏子が、「わたしにも理由があります」と訴える場面だ。これまでの夏子は畳に額をすりつけ、怒り狂う花蛍に必死に詫びながら訴える風であったたところを、小泉今日子は小学生のようにすっくと起立して手を挙げ、先生、意見があります風に言うのである。あまり悪びれる様子にしないのも、新演出の意図のひとつなのか。
それはそれでいいとして、花蛍の演技はそれに対応するものではないから、両者のあいだの空気にはすれちがいがあり、やりとりがじゅうぶんにふくらまず、おもしろみが半減してしまうのだ。
自分の台詞をこなすだけでなく、相手の台詞を聴き、客席の反応も考えながらテンポを整え、劇ぜんたいのリズムや流れをつくってゆく。たいへんな作業であるが、やはりそれができていなければ客席にはなかなか伝わらないのではないか。
初日からおよそ2週間経過している。公演は来月なかばまでつづくが、ぜひもっともっと上を目指してほしい。でなければシアターコクーンや銀河劇場ならまだしも、サザンシアターで8400円のチケット代が妥当とは言えないだろう。
不満の多い記述となったが、自分はやはり『頭痛肩こり樋口一葉』が好きである。何度でも舞台をみて、戯曲を読みかえしたい。ひとつの作品が何度も繰りかえし上演されつづけるというのは、こちらが想像するよりも稀有なことであり、それを見つづけることができる客席もまた稀有な幸福を手にしているからである。
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