土曜の昼下がり、神田神保町の某所において月に一度行われている「ドラマを読む会」に参加した。お題はJ.M.シングの『西の国の人気者』(菅原卓翻訳)。本作は2007年中野成樹+フランケンズによる『遊び半分』の上演をみた。奇抜な舞台美術と誤意訳による、奔放でしかも慎重な演出が印象に残る。
この「ドラマを読む会」は、月に一度有志が集まって戯曲を声を出して読みながら、語りあうものだ。
そもそものはじまりはいまから半世紀前、今春退官された教授が学部生のころの活動の再開でもあるとのこと。機関誌「劇・ドラマ」(今年3月、48号をもって終刊)の序文に、「その場で配役して読み合わせをするのが味噌で、黙読では見逃しがちな潜在する戯曲の魅力が、自ら顕れることがしばしばである」のことばどおり、ほんの数ページ読むだけで出るわ出るわ、いろいろなものが(笑)。
本読みはすでに物語終盤にかかっており、謎の男クリスティと、村娘ペギインが甘い会話を交わしているところだ。意外に教養あるクリスティの巧言に、ペギインが次第に傾いていく様子がおもしろい。
翻訳の段階でカットされているところや、ニュアンスの伝わりにくいところ、戯曲の書かれた背景や作者の意図なども、教授が原文をあたって詳しく解説してくださった。
以下ひとつ例をあげる。
彼女が彼を「クリスティ・マホン」をフルネームで呼ぶ台詞が、日本語版では数か所カットされている。
「お前と夫婦になったら、あたしはどんな暗闇の中でもクリスティ・マホン、一緒に出かけてゆくよ」といった具合である。相手をフルネームで呼ぶことによって、包み込むように愛情が溢れ出る様子が伝わってくるでしょ・・・という先生の解説に思わずぼおっとなってしまう。
しかし「クリスティ・マホン」という呼びかけが原文とおり入っていたとして、舞台で俳優の演技をみながら、あるいは戯曲を読んで、その意味や効果を自分は生き生きと感じ取ることができるだろうか。
その一方で原文にない表現、つまり翻訳者が加えているところに「これは好きだなぁ」と感じるところもあった。ペギインのことばに感激したクリスティが、「そういう声でひしひしと、この自分にきかされるのは、生まれてからはじめてだ」という台詞。「ひしひしと」は原文にはないそうだ。状況からいって、「ひしひしと」はあまり適切ではなさそうだが、自分にはとてもおもしろく聞こえる。俳優がどんなふうに話してくれるか、身を乗り出すだろう。
毎日かよった懐かしい街で、昔教わった先生、はじめてお目にかかる先輩たちや久しぶりに会う同級生とともに戯曲を読み、語りあう。何と幸せなことか。不勉強の学生は不出来のまま変わりはないが、新しい楽しみが与えられたことに感謝するものであります。
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