森田オフィス/イッセー尾形・ら㈱企画・制作 森田雄三演出 公式サイトはこちら NTTクレドホール 10日のみ
イッセー尾形の舞台を東京でみたことはなく、98年新神戸オリエンタル劇場が最初、2度めが今回だ。山口県東部にある自宅からバス停まで徒歩20分、そこからおよそ1時間で広島バスセンターに到着。広島そごう新館の11階が会場である。チケットはイッセー尾形のイラスト入りで、何種類もあるらしく、自分のには名作「アトムおじさん」が描かれていた。予約すると先にチケットが送られてきて、当日受付で精算するのだ。互いの信頼がなければ成立しないシステム。
会場は広々として天井も高く、演劇やコンサート、講演会やプロレスの試合まである。客席の構成は催し物の内容によって自在に変えられるそうだ。天井の照明は青白く、この下でレスラーたちが戦う様子も・・・じゅうぶん想像できる。本日の客席は400席ほどだろうか。年齢層も幅広く、みるみるうちにほぼ満席となった。
舞台中央に白い壁と床で作られた演技エリアがあり、上手には短い花道らしきもの、下手には衣装のかかったハンガーラックに姿見、楽器などの小道具が置かれている。
およそ20分くらいのひとり芝居が8編だったか。1本おわると下手で汗を拭き、衣装や髪、メイクを整えて水をいっぱい飲む。しぐさは手早いが決して慌ただしくなく、静かで淡々としている。この間はほんの1,2分だろうか、ほとんど休憩なしの出ずっぱり。気がついたら2時間30分近くが経過していた。終演後のサイン会もたちまち長蛇の列になり、毎年この時期に行われる広島公演を楽しみに待っているファンがいかに多いかがわかる。温かく、楽しいステージであった。
イッセー尾形のひとり芝居は既に確固たる実績と評価を得ており、いまさらこの場であれこれ書くまでもないのだが、生の舞台をみると改めてその巧みなることと同時に、ひとり芝居の素朴な面も保たれていることに驚嘆する。ひとり芝居の特徴として、俳優が存在しない相手役の台詞をおうむ返ししながら進行する。ひとり芝居の性格・構成上致し方ない面も多々あるのだが、イッセー尾形の舞台はその台詞の呼吸が絶妙であり、不自然に感じないばかりか、いないはずの人物がみるみる立ちあがっていくような臨場感を生むのである。
そのいっぽうで、この人はほんとうはひとりきりで、延々とひとりごとを言っているのではないかと思わせる、ぞっとするような寂寥感が伝わってくる演目もあり、「これからの生活」というタイトルには、現代人の孤独や孤立の絶望も込められているのかなとも思う。
イッセー尾形は今年還暦を迎えるとのこと。コント芸ではなく、しかしいわゆる「演劇」のくくりとも微妙に距離と温度差のある、まさにイッセー尾形しかできない世界である。今後この財産をどのように育んでいくのだろうか。
この日の演目では、いっぽんめの自転車の練習をするおばさんがもっとも印象に残った。
子どものころ、父親から「はしたない」と言われて自転車に乗れなかった。60歳はとうに過ぎたと思われる女性が黙々と練習していると、同じ団地の住人だろう、ご近所の人たちが次々に現れて指南をする。アドバイスの数かずはイッセーのおばさんにとって有効なものはほとんどないが、彼女はとつぜん乗れるようになる。「これって、結局こういうことだったのね」
ステージをすいすいと走り、裏側から上手の花道を駆けあがると、花道にブルーの電飾が灯る。「お父さん、これのどこがはしたないの」喜びにあふれ、晴々と空を仰ぐ姿に拍手喝采。
しかしこのおばさんからは前述のような寂寥感が漂い、笑いながらもふと背中に冷えびえとしたものも感じるのである。
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