劇評サイトwonderlandのクロスレヴュー挑戦編 十七戦地#2『百年の雪』に参加しました。今回は★数コメントともに辛口が並んでいます。
因幡屋も(汗)。
★数やコメントが大きく割れるほうが、レヴューを読む側からすれば刺激的なのですが、評価の内容が似通っており、この箇所に違和感をもった、ここをこうすれば・・・俳優の演技、髪型、衣裳、台詞等々、評者の指摘が具体的であることが今回のレヴューの特徴でしょう。
舞台をみながら、「あそこをほんの少し変えれば、違ってくるのでは」と考えたり、どうしてもあの人物の髪型(大正時代の既婚女性の髪型が女学生のようだという指摘には激しく同意します)、台詞の言い方が気になって劇世界に入り込めないというのは、大変もどかしく、しまいには苦痛にすらなります。戯曲と演出のバランスを適切にとるのは大変むずかしいことなのだと察しますが、作者の前作『花と魚』の力量をもってすれば、劇世界はもっと変容するのではないでしょうか?
ハンガリーのタル・ベーラ監督が「今回が最終作」と公言した映画『ニーチェの馬』をみた。
1889年のトリノにおいて、哲学者ニーチェが鞭打たれる馬車馬に駆け寄り、卒倒したまま精神の均衡を失った・・・という逸話から作られた。『ニーチェの馬』という題名はここに由来する。
映画には、時代も場所も明かされないどこかの寒村で、馬と荷馬車をもつ父親とその娘が、井戸を埋められ、馬は動けなくなり、かまどの火種も失ってゆく6日間が描かれる。
食事は茹でたじゃがいもをひとつきり。父と娘は手づかみで食らう。朝がくれば娘は井戸から水を汲み、父親の着替えを手伝い、馬に餌をやる。まるで儀式のように。井戸、馬、火と命の綱をひとつずつ失ったふたりは6日めに生のままのじゃがいもを前に沈黙する。7日めはもう来ないのか。
19世紀末のヨーロッパで、実際にこのような極限状態があったという歴史的事実を示したわけではなく、過去の時代が描かれているものの、人間がやがて行きつくところが描かれた黙示録とも、寓話とも言える。タル・ベーラの視点は徹底してぶれない。ふたりは極限状態に追い込まれるのだが、パニックになったり泣き叫んだりはしない。そこがかえって恐ろしく、「こんなとき映画やドラマの俳優はこんな演技をする」というこちらの既成概念を少しずつ壊してゆくのである。
なぜここに映画の話を書くかというと、『百年の雪』に感じたもどかしさやものたりなさに対して、『ニーチェの馬』が何かしらの方向を示しているように思うためだ。や、ちょっと無理やりでしたか。
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