因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

東京夜光『BLACK OUT~くらやみで歩きまわる人々とその周辺~』

2020-08-23 | 舞台
*川名幸宏作・演出 MITAKA “Next” Selection 21st 劇団公式サイトはこちら 30日まで 三鷹市芸術文化センター星のホール 川名演出の舞台について当ブログの記事はこちらをスクロール

 いろいろな顔を持つ作品だ。学生演劇出身で、作・演出志望ながら、演出助手の仕事に勤しむ主人公の真野(丸山港都)は、川名自身の演劇人生を濃厚に反映して、私小説ならぬ「私演劇」の様相。これが第一の顔。
 公演チラシには「今やプロフェッショナル化が進む『演出助手』という仕事」とあるが、具体的にどういうことなのか。真野が客席に向かって、演出助手の業務内容を語る場面があったり、商業演劇と小劇場演劇の違い、プロデューサーにはどんな権限があるのか。演劇創作の現場において、作品をめぐる衝突や混乱、困った人の扱いなどを経て協力しあうところなども描かれている。「バックステージもの」が第二の顔だ。

 コロナ禍によって公演が次々に延期や中止され、真野自身が演出助手の仕事を失い、人間関係にも破綻をきたして追い詰められながら、夏の公演に向けて新たな創作が始まるあたりは、まさにこの公演の現場そのまま、息づまるような終幕へと向かう。

 本作の核は「なぜ演劇を作るのか」と自らに問いかけ、誠実に答えようともがき続ける現場の演劇人の姿であり、それによって、コロナ禍に翻弄される今現在に特化しない普遍性を得た。2011年3月11日の東日本大震災後のこの国の混乱とは異なる苦悩と困難のなか、演劇は、わたしたちはどこへ行こうとしているのか。たやすく答の出る問題ではないが、この問いに右往左往し、仲間と衝突して傷つき、自己嫌悪に陥りながら、「それでも演劇を作りたい」と稽古場で悪戦苦闘する人々のすがたは川名幸宏の演劇論だ。これが第三の顔である。

 自分自身を舞台にのせるのは両刃の剣であり、成功したとしても二度は使えない。いわば禁じ手であろう。しかし強く惹かれるのは、ほんとうに初日が迎えられるのかという不安に押しつぶされそうになりながら、それでも稽古場に行かねばならないこと、彼の抱える不安や恐怖は自分の作品が座組の皆に、観客に受け入れられるかどうかであり、ウィルスに対するワクチンのような治療法がなく、受け取り手を必要とする演劇を選んだからには逃げようがなく、それでも作りたいという気持ちは治療不可能な宿痾であるとも言える。もっとも好きなもの、打ち込めるものが同時に自分を激しく苦悩させる。この矛盾とどう折り合いをつけ、乗り越えていけるか。演劇という宝であり魔物でもある厄介な贈り物を人生に与えられた人々の物語は、おそらくコロナ禍が終息したのちにおいても、確かな手応えをもたらすだろう。

 演出助手役の丸山港都は、鬱屈した演劇愛、不意に漏らした傲慢なひと言で墓穴を掘るクズっぷり、後輩女子へのひとりよがりな執着など、真野という欠けの多い人物をあざとさのない自然な造形で緩急自在に演じて2時間超の舞台の時間を長いと感じさせない。丸山をはじめ、すべての俳優が自分の持ち場を的確にとらえいることに加え、一人ひとりに大切な台詞や場面が自然に備えられていて、一見「演劇業界あるある」的な人物も、やがて舞台を作る生身の人間としてひとりの無駄もなく存在している。

 この世にあまたある芸術や文化、楽しみのなかから、なぜ演劇を選んだのか。劇作家か演出家か、俳優かスタッフか。関わる仕事も多岐にわたり、その道を懸命に突き進んだ人もあれば、何となくいつのまにか…という場合もあるだろう。さまざまな演劇人生を送ってきた人々が一堂に会し、ひとつの舞台を作り上げようとしている。彼らの「今」を客席から観た自分は、彼らの「これから」を見届けるという仕事を与えられたように思う。
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