*宮本研作 高瀬久男演出 公式サイトはこちら 東池袋・あうるすぽっと 24日まで
6月1日、演出の高瀬久男が57歳の若さで急逝し、図らずも今回の『明治の柩』が遺作となった。劇場ロビーには本作の演出ノートや内外の演出作品のポスターなどが展示され、さまざまなジャンルの作品を、多くの劇団、俳優たちと作り上げてきた高瀬の功績を示している。自分は文学座ならば『ナシャクラサ』、佐藤正隆事務所公演の『リタの教育』や『死と乙女』、オペラシアターこんにゃく座の『森は生きている』などが記憶に残っている。若すぎる、早すぎる。ほんとうに残念だ。
足尾銅山の鉱毒被害の解決に半生を捧げた田中正造を題材にした作品である。主人公の名は旗中正造(石田圭祐)になり、作家であり社会運動家である木下尚江は岩下先生(加納朋之)、無政府主義者の幸徳秋水は豪徳さん(得丸伸二)の名で登場する。銅山の鉱毒に苦しみながらも、地元の人々は銅山によって暮らしが成り立っている面もあり、反対活動は一筋縄ではいかない。
実は観劇前に、おそらく1960年代のぶどうの会による初演の舞台を見た経験があり、宮本研の作品にも詳しい年配の知己から、色よいとは言いがたい感想を伺った。初演当時のような思想や哲学、イデオロギーを近しく感じとることがむずかしい現代において、正攻法の舞台作りではなおさら伝わりにくいというのである。さらに別の方から「見ない」と退けるご意見も。いま宮本研の作品を上演する意義を受けとめる気持ちがないということか。3時間を越える長丁場ということもあり、いささか気構えながらの観劇となった。
しかし喜ばしいことに、すべては杞憂であった。たしかに上演時間は長い。単純に企業の公害から地元の人々を救い、勝利を勝ち取るという話ではなく、天皇制、社会主義、さらにキリスト教など、何がその人の精神の根幹を成すのか、国家とは、そのなかで生きる個人とは・・・といった硬質な課題を、人々は飽くことなくとことんまで突き詰めようとする。全編緊張感が漲る力強い舞台であり、震災による原発事故や憲法改正、安保関連法案、政治家による報道威嚇など、まさにいま起こっている問題を、恐ろしいほどに炙りだす。明治時代の話であるの、古びた印象はなく、むしろ現代を見通しているかのような議論が客席にぶつけられてくるのだ。
一昨年、『ガリレオの生涯』で、中世イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイを演じた石田圭祐が、今度は頑固一徹の社会運動家旗中正造に挑む。村の農民を演じた若手、中堅やや力み過ぎのところもあったが、いずれも精魂込めて作品に立ち向かっていることが伝わり、心地よい疲労感が終演後の心身を満たす。
先輩方のお話を改めて思い出す。とくに「見ない」と拒否された方には、ぜひとも今回の舞台を見ていただきたかった。過去の上演がどんなものであったのか。高瀬久男の演出、文学座がいま現在取り組む舞台であるのに、なぜ見ずして退けるのか、どんなものなら見たいのか。それを聞きたい。
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