因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団だるま座本公演『笑って死んでくれ』

2013-08-18 | 舞台

*相馬杜宇作 藤井ごう演出 劇団公式サイトはこちら 座・高円寺1 18日まで
 相馬杜宇作品の観劇記事はこちら→1,2,3
 この夏座・高円寺が、日本劇作家協会プログラムの「新しい劇作家シリーズ④」として嶽本あゆ美『太平洋食堂』を皮切りに、てがみ座の長田育恵『空のハモニカ』、とくお組の徳尾浩司『砂漠の町のレイルボーイズ』を連続上演した。その棹尾を飾る作品である。
 また劇団だるま座は荻窪の商店街にアトリエをもち、毎月1本という驚異的なペースで公演をおこなっている。古典から新作までそのレパートリーは幅広く、「小劇場、新劇、大衆演劇、そのすべてに近いようで、どれにもあてはまらない」(劇団の沿革より)という稀有な劇団だ。ベテランから中堅、若手まで、俳優の層も厚い。
 筆者は今回がはじめてであるが、長年にわたる「だるま座」ファンはたくさんいらっしゃるとお見受けした。そのだるま座に、若手注目株の劇作家である相馬杜宇が新作を書きおろす。
 日本劇作家協会発行の「ト書き番外編」に、上記若手劇作家の座談会の特集が組まれており、相馬が本作について語っている。日中戦争時に芸人が戦地を慰問する「わらわし隊」という集団があり、そのなかに落語は下手なのだが顔が面白いために大人気の落語家がいたそうだ。その落語家をめぐるエピソードをベースに現代の「成仏できない人たち」を絡ませたとのこと。これを読むだけでもわくわくするではないか。
 

 残念ながら、この期待は劇場に入るところで引いてしまい、劇終盤になるまで停滞したままであった。

 たとえば今回のチケット代金について。座・高円寺で、全席自由席で4000円というのは少し首をかしげる設定である。なぜ指定席ではないのか。受付は開演の1時間前、チケットに記載の整理番号順の入場とのことだ。ということは、良い席をのぞめむのならできるだけ早く受付を済ませなければならず、開場までの時間をどう過ごすかが問題になる。
 高円寺の町は楽しいから、食事でもお茶でも買い物でもできるけれども、この猛暑である。できれば消耗したくない。劇場ロビーは広々として涼しいが、立ったままで長く時間を過ごすには不向きだろう。地下にいけばソファはあるけれども。
 時間が来て劇場に入ると、中央に寄席のステージに見立てられた演技スペースがあり、客席がそこを三方向から囲むつくりになっている。演技スペース奥にも客席があるが、そこは劇中で使うらしい。出演俳優さんたちが観客を空席に誘導する。上演中の注意事項などを記した手書きのプラカードをもち、「前のお席が成仏しやすいです」などなど、すでにここはこの世とあの世のあわいのごとく、劇世界にようこそといった趣向であろうか。

 好みがわかれるところだろうが、自分には居心地の悪いものであった。劇場スタッフではなく、出演俳優が演出の一環として、その劇の趣向として観客誘導を行うばあい、いろいろな配慮が必要ではなかろうか。観客は日常を身にまとってやってくる。まだ心も頭も温まっていない。とまどいや警戒心がある。そこへ早くも芝居モードでノリノリの俳優にあれこれとことばをかけられるのは辛い。できればそっとしておいてほしい。
 また今回の趣向をじゅうぶんにこなすには、とくに若い俳優さんの力量がいまひとつ達していない。余裕が感じられないのである。前述のチケットのことに戻れば、「成仏しやすいお席にどうぞ」という流れを作らんがための全席自由席だったのだろうかという疑問もわく。

 これは以前にも例に挙げたが、客入れの楽しさという点で大阪の劇団May(1,2,3,4,5,6,7)は抜群だ。客席という舞台とはちがう領域に、まさにおかまいなしの土足で上がり込むのであるが、座長の金哲義はじめ劇団員は客演も含めて、あっというまに観客の心をほぐし、これからはじまる舞台への期待をどんどん高めてゆく、それも演じるほうもいっしょに盛り上げようという勢いがすばらしいのである。これは関東と関西のちがいがあるにせよ、Mayが培ってきた観客へのホスピタリティの精神、ぜったいにいい舞台をお見せしますよという心意気あってこそだろう。

 劇本編については、こりっちの「観てきた」に自分もたじろぐほど手厳しい感想が書かれている。しかし同感だと思わざるをえない。

 登場人物はいずれもすでに死んだ人であり、しかしこの世に何らかの心残りがあって成仏できずにいる。そういった人々が相手を心から笑わせて、その手ごたえを得た瞬間に成仏できる。これが本作の大きな設定であり、魅力に転ずるはずなのだが、ここにもいろいろな無理や無駄が散見しており、楽しめるものではなかった。
 主人公のワハハ亭ワハハは落語が下手で、いまで言うところのピンのお笑い芸人になっている。彼がつぎつぎに披露するお笑いというのがほんとうにつまらないのである。この「おもしろくないお笑い」をどう描くのか。おもしろくないところが、一歩引いた観客にとってはたまらなくおかしいところにもっていく、それが劇作家の腕のみせどころだ。と願うのは見当ちがいなのだろうか。

  ワハハを演じる剣持直明と、偽ワハハ役の中嶋ベンが劇の終盤でようやく絡む。ここからはふたりのベテラン俳優の心と技があふれるように発揮され、みごたえのある場面となった。ここを描きたいために本作があるといってもよかろう。すばらしい。しかしここにたどりつくまでたいかんせん長すぎ、冗長なのである。劇作、演出、いずれにも問題がある。

 本作は「笑わせる」ことと、「笑われる」ことのちがいを示す一種の演芸論、昨今のお笑い芸を日本人のメンタリティの面からとらえる文化論として展開させることもできる。落語家の到着を楽しみにしていたのにその3日前に戦死してしまい、そのお骨の前で落語を披露したという史実はあまりに悲しく、反戦の作品として提示することも可能だ。
 劇作家も演出家も周囲によけいな気を使わず、思うぞんぶん力を発揮するのがいちばんだが、多くの舞台を経験してきたベテラン俳優が出演し、座・高円寺の「新しい劇作家シリーズ」という企画でもある。創作の段階で、何らかの意見というか、示唆を与えることはできなかったのだろうか。

 というのも「こりっち」のメッセージの中に、「いつものだるま座らしくない」というご意見がいくつもあったのである。自分はだるま座初見だが、前述のように俳優の層が厚く、幅広いレパートリーをもつ劇団だ。もっと弾んだ舞台になるのではなかろうか。

 楽しめなかった舞台について書くのは気が重く、それなのにずいぶん長い記事になった。読んでくださるほうも楽しくなかったのではないでしょうか。最後までおつきあいくださって感謝です。申しわけありません。
 楽しめなかったからといってスル―できなかった。それは劇作家・相馬杜宇、劇団だるま座の魅力をもっと知りたいからにほかならない。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 劇団民藝公演『黒い雨-八月六... | トップ | ガラス玉遊戯vol.7『癒し刑』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事