*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄訳 吉岩正晴演出 公式サイトはこちら シアター711 28日で終了
1975年に演劇企画レ・キャンズとして設立され、1989年にいまのハーフムーン・シアター・カンパニーと改称したこのユニットは、キャリル・チャーチルの『トップ・ガールズ』を皮切りに、「英国若手劇作家シリーズ」をはじめとして現代英国演劇新作の上演に力を注いでいる。HPの過去上演歴をみると、あまり上演の機会のない作品が続々で、これがようやく初見となった自分は反省しきりである。
筆者がこれまでに観劇したピンター作品の記事はこちら(1,2,3,4,5,6)。
社会人演劇と銘打って試みと企みに満ちたクリニックシアターは別として(第1回,第2回)、もっとも楽しんだのが喜志哲雄先生によるピンター作品についての講演会だという(苦笑)。いまやピンター作品の観劇前後に喜志先生の『劇作家ハロルド・ピンター』を読むのは欠かせないが、この本を読むのと同じくらい、それ以上のおもしろさを実際の舞台から受けとったことがないのである。以前も書いたことだが、本末転倒だなぁと。
しかしだからといって「みるのはこれでやめにしよう」とは一度も思わないのがピンターの不思議、自分にとっての楽しい謎なのだ。
『誰もいない国』は、出会いのきっかけや、なぜここに一緒にいるのか、ここがどういう場所であるのか、過去の背景や現在の関係性、力関係がよくわからない男性たちによる芝居である。
彼らはウォッカやウィスキーを盛んに飲みながら、饒舌に話す。しかし観客の疑問を解く糸口はみえてこない。人物によってはそうとうな長台詞もあるのだが、何かを説明し、観客に状況を知らせるものとは違い、とくに若松武史が演じるスプーナーの台詞が(これは酒に酔って呂律がまわらなくなっているのかとさえ思ったのだが)聞きとりにくい。集中がとぎれると次第に眠気に襲われる。
喜志先生は、「テクストを丁寧に読むなら、人物たちの心理を辿るのはそれほど困難な作業ではなくなる」と書いておられる。なるほど戯曲は何度も読み返すことができるが、目の前の上演は一度きりである。何度もみることは不可能ではないけれども、ほとんどの場合、観劇は一回勝負だ。今回は文字通りの「完敗」であり、再挑戦の機会が訪れることをひたすらに願っている。
舞台『誰もいない国』には難儀したけれども閉口してはいないし、これで終いだとも思っていない。ただ本公演における開演前のアナウンスにはいささか疑問を呈するものである。携帯電話の電源を切ること、途中休憩があることなどなど内容はふつうなのだが、あれこれとギャグを連発し、それじたいはおもしろかったが、本作の開演を待つ劇場の雰囲気には著しくそぐわないものであった。どうしてこういう趣向にしたのか。それが初ハーフムーンの最大の謎である。
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