*青木豪作 宮田慶子演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 7月18日まで
これまでみた青木豪作品の記事はこちら→(1,2,3,4,5,6 7,8,9,10)
横須賀郊外にある総菜屋の厨房と自宅の居間が舞台である。切り盛りするのは妻の美枝とパートの酒田で、あるじの幸広はのらりくらり。しょっちゅうやってきて小金をせびりとる弟の次郎に手を焼きながら半ばあきらめ、妻の苦労も見て見ぬふり、老いた母親にも頭があがらない。子どもたちは母親に同情し、血のつながった叔父に対してきつい態度をとり、煮え切らない父親や甘やかしてばかりの祖母に反抗する。
どこの家庭にも困った親戚のひとりふたりはいるものだ。長年に渡って家庭を浸食し蝕み、そのたびに家族が諍う様相はユーモラスというより醜悪で、ちょっとした地獄である。
これまでみた青木豪の作品は、家族という小さな社会において、そのなかのひとりが死ぬこと、それが残された人々に深い傷や後悔を色濃く及ぼす様相を丁寧に、あるときは容赦なく描いているものが多い。すでにこの世にいない息子や弟や妻が、今生きている自分を悲しませ、苦しめる。しかしやがてそのいない家族によって、生きている家族が救われ、生かされていく。
今回登場人物にさまざまな影響を及ぼすのは、「天皇」であり、「皇室」である。想像しえなかった題材にやや身構えながら劇の進行を見守った。
井上ひさしでもなく、坂手洋二でもない、青木豪が考える天皇観をもっとみたかったと思う。すべてを詳らかにするのが演劇ではないけれども、庶民の立場から決して直接に交わることのない天皇を崇拝するもの、テレビや雑誌で見聞きしてはいてもあまりに遠い存在であり、しかし日本に生きている自分に、何らかの形で影響を与え、まったく関わりはないと言い切れない。それが「天皇」なのだ。
あまり正面を切って描かれる題材ではないし、持ってくるとしたら相当な覚悟が必要と思われるが、青木豪の本作は実に自然に、天皇に対する一般庶民の生活感覚を示してある。しかし叔父をめぐる家族の確執や、息子の友だちが母を亡くした痛ましい過去、そして天皇に対するあれこれが絡み合ってぶつかりあうさまをみたかったのだが、どれも中途半端なまま拡散しており、劇中に挿入される鳩の映像が何を狙っているかもわからない。
下北沢のスズナリや新宿のシアタートップス(現在は閉館)での青木作品を見慣れた目には、両袖、高さともにたっぷりある今回の劇場の構造を活かしきれておらず、残念に思った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます