*永井愛作・演出 公式サイトはこちら 世田谷パブリックシアター 18日まで
公演チラシの表には「私は私でなくなった」、裏面には「今回の芝居の主役は『インテグリティ』になるはずです」と意味深長に記されている。チラシを入手したのはずいぶん前のことだが、これだけを読んでも具体的な内容がわからない。永井愛久びさの新作が、一昨年夏から物議をかもしていた新国立劇場の芸術監督の交替人事が題材であると知って、舞台への期待度は急激にアップした。
東京郊外の架空の町「可多里(かたり)市」でアートフェスティバルが行われようとしている。雇われプロデューサー(竹下景子)は張り切るが、実行委員長である造形作家(山口馬木也)のプランは理事長(銀粉蝶)によって退けられる。最初は協力していたほかの実行委員ら(花王おさむ、松浦佐知子)も次々と切り崩され、プロデューサーと実行委員長は孤立無援の窮地に立たされる。いくつも窓のある大きな壁があるだけの抽象的な装置で、俳優は舞台の下部でせわしなく動き、舞台の上部がもったいなく、劇場のサイズがやや大きめではないかと思ったが、終幕ではその壁の大きさや高さが効果をあげる。
税金をつかって運営されている公共の劇場の大きな人事が不透明なまま進められたことに対して、納税者であり、よい舞台を求めて劇場に通う観客として、もっとリアルな問題意識、当事者意識をもつために、『かたりの椅子』はよいきっかけになった。特に後半は、「これはあのときのあの人のあの発言だ」といったリアルな台詞がどんどん出てきて、「ここまで書いて大丈夫か」と背中がヒヤリとする箇所が多かった。新国立劇場の執行部に対する告発や非難ではなく、また「わたしはこんなひどに目にあいました」という個人的な仕返しでもない。何かひとつのことを行うとき、皆が同じ考えであることは稀であり、異なる考えをもったもの同士が意見を交わし合いながら進めていかなければならない。なのに根回しや上からの押し付けがあり、意見が封殺され、話し合いが成立しないことがあり得ること、それは行政と芸術に限ったことではなく、毎日の生活のさまざまな場で起こり得ることが描かれている。
芸術監督交替をめぐって、永井愛はどれほど怒り、もどかしくやりきれない思いに苦しんだかは察するにあまりある。しかし舞台からは恨みがましさや告発調の上から目線は感じられない。出演者全員が二兎社初参加とは驚いたし、特にこれまで「きつくてイヤな感じの夫役」のイメージが強かった山口馬木也の配役には意外な印象があったが、舞台ではまったく違和感がなかった。パンフレットに「非戦を選ぶ演劇人の会」のピースリーディングの出演がきっかけであると記されていて、なるほどなと納得した。
劇作家には劇作家の闘い方がある。それも目をむいてこぶしを振り上げてヒステリックに訴えるのではなく、しなやかにユーモアをもって、それまで静まっていた水面に静かに波紋を広げるかのごとく、見る人の心に確かな手ごたえを与える。最後にプロデューサーがどんな選択をするかは示されないが、自分はわずかでも人の良心を信じたい。微妙にすかっとするようなしないような複雑な心持ちの夜になった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます