公式サイトはこちら 渋谷ルデコ 11日まで
昨年の『小劇場版 日本の問題』(A,B)、『学生版 日本の問題』(A,B)につづいて、学生劇団の若者たちが『日本の問題Ver.311』を行った。公式サイトにも明記されているとおり、公演の収益全額を被災地への義援金にするという。若者たちの熱意や葛藤はツイッターや、プロデューサーである松枝佳紀氏のブログにも詳しい。
上演前、携帯電話の電源を切るなどの注意事項だけでなく、初日を明けてから上演の順番を変えたこと、寄付金の送り先を日本赤十字社からあしなが育英会へ変更したことなどを、荒川チョモランマの長田莉奈さんが大変明晰な口調で話してくださる。
参加劇団、演目は次のとおり。過去公演のリンクは、↑『学生版 日本の問題』と重なるところがあります。
*演目1『まだ、わかんないの。』
広田淳一(ひょっとこ乱舞)作 鳥越永士朗(劇団けったマシーン 1,2)演出
*演目2『3.111446・・・』
岩渕幸弘(思出横丁 1)作・演出・出演
*演目3『アカシック・レコード』
菊地史恩(四次元ボックス 1)作・演出
*演目4『指』
瀬戸山美咲(ミナモザ 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14)作 鳥越永士朗(劇団けったマシーン)演出
*演目5『止まり木の城』
長田莉奈作・演出(荒川チョモランマ 1,2)
1:『まだ、わかんないの。』
2011年7月のフェニックス・プロジェクトにおいて、ひょっとこ乱舞の新作朗読劇として上演され(演出も広田淳一)、好評を博した作品とのこと。自分はこれが初見となった。
昔の彼氏が東北出身だったことを思いだして、職場の後輩に彼の安否をたずねる女性。震災を機にしっかりと「絆」が確認できたり、「つながり」が強くなったりすることを芝居にするのではなく、相手への距離感がぶれて揺れ動くこと、互いが遠い存在であることを知らされる、少し胸の痛む話であった。作り手の訴えかけが「少し」であることが、かえって好ましい。
2:『3.111446・・・』
作・演出・出演をすべて岩渕幸弘がする、つまり一人芝居形式だが、太宰治の『走れメロス』をベースに、ところどころ『駈込み訴へ』も交えながら、被災地へ肉親を探しに向かう青年の苦悩を語る。手に握った紙束は、台本のようでもあり、冷淡で鈍い王(行政)への訴え状のようにもみえる。語りながら紙をどんどん捨ててゆくことが効果的でもあり、「手元にある紙があと○枚くらいだから、芝居はあと何分かな」と、知らず知らず「目安」にしてしまう難点もあり。
3:『アカシック・レコード』
母親を知らずに育った青年がみる夢にいつも現れる少女。やがて過去が記録されている空間に連れてこられて、そこでみたものは。
演目のなかでは唯一、震災を題材に取り上げていないものであり、それはそれで潔い。
ただ昨年の『あんのーん』の、客席ぜんたいをかっさらっていくような勢いを思い出すと、生硬な印象をもった。
4:『指』
2011年11月の『小劇場版 日本の問題』B班において、ミナモザ主宰の瀬戸山美咲の作・演出で上演され、他劇団の演出家から「この作品を演出してみたい」という声が複数あがっていたと聞く。自分もずっと気になっていた作品であり、初演からこんなに早く、違う演出家によって再演が実現されたのは、大変喜ばしいことである。
今回の演目のなかで一頭地を抜く出来栄えだ。小さなルデコの空間で、その人の表情や声の変化、息づかいまで感じとれる。内容が内容であることに加え、度肝を抜くような作りが可能なタイプではなく、辛抱が要求される作品だ。演出は奇をてらわず丁寧、ふたりの俳優も立派に応えた。荒涼たる風景がみえてくるようであった。
何が正しいか、どこまでなら許されるのか。良心とは何なのか。問いは重く、答はでない。しかし終幕のふたりのすがたに少し救われる。これもやはり、「少し」のところがいいのである。
5:『止まり木の城』
いまから20年後、被災地の学校で将来の夢を発表する小学生の男子ふたりと女の先生。
ひとりは夢いっぱい、もうひとりは冷徹なリアリスト。言い争うふたりから意見を求められて絶句する先生は・・・。
震災からあっというまに1年が過ぎた。状況が変わろうと変わるまいと、時は容赦なく過ぎてゆくことを突きつけられた思い。しかし本作も四次元ボックスと同じく、もっと伸び伸びと、と同時に緻密な舞台作りができるのではないか。
『まだ、わからないの。』と『指』に安定感と完成度の高さがあり、新作については戯曲、演出ともにもっと変わる余地があると感じられたのは象徴的であった。
さて初日から「物議をかもしている」との「前説」について。
この公演のプロデューサーのひとりであり、荒川チョモランマの作品には俳優として出演もしている廣瀬直紀氏が毎回上演前に本公演に対する彼自身の意見を述べるのだが、それが賛否両論波紋を呼んでいるという。関係者のツイッターをみると、いやもう大変な状況で、うっかりすると芝居本編よりも盛り上がっているのでは?
基本的に自分は前説が好みではない。どうしてもやるなら、観客をこれからはじまる舞台へ気持ちよくいざなってくれるものがよい。いや、これはべつに美辞麗句や予定調和や観客サービスを要求するのではなく、あくまでも舞台成果をよりよくするための効果をじゅうぶんに考えたものであってほしいと願うのだ。
異質なものやみるほうが嫌な気分になるものぶちかますのも、舞台そのものを光らせることに効果的であれば納得できる。そうするためには、言葉やスタイルを吟味し、表現するものとして「技」や「芸」が必要であろう。
廣瀬氏の前説は内容も方法も毎回同じではないらしいが、少なくとも自分が観劇した日に関して言えば、むきだしの自己主張であった。言いにくいことを辛そうに必死に言っているようにみえたが、これは素の状態であったのか、もしかしたら演技の要素も入っているのか。
素の自分をぶつけるにしても、聞いてほしいから言うのであって、ならばもっと配慮が必要であろうし、演技的なものも意識しているなら、たとえばもっと破滅的に、暴走する廣瀬氏をプロデューサーの松枝氏が止めに入り、混乱の極みのなか本編が始まる・・・などという演出もアリではないか。いえ、これはさすがにやりすぎですが。
自分には、当日リーフレットに記載された廣瀬氏の文章だけでじゅうぶんである。
廣瀬さんは俳優としてとてもいいものを持っていらっしゃるのだ。今回の前説で、それが活かされていないのがいかにも残念だ。あの場は俳優ではなく、プロデューサーとして、もっと言えば役割は関係なく、この企画に関わるものとしてどうしても言っておきたいからだとしても。
長くなりましたね。昨年の小劇場版から上演中のVer.311まで、プロデューサーの松枝佳紀氏はじめ、関わった方々は大変な労苦を乗り越えてこられたと察する。敬意を表するとともに、今後の活動への大いなる糧になることを祈り、もっともっと豊かで刺激的で、みるものの心を揺さぶる舞台をこれからも作り続けてほしいと願うものである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます