*マキタカズオミ脚本・演出 公式サイトはこちら サンモールスタジオ 14日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8)
登場人物のことばから、物語の舞台は中国地方にある島と察せられる(マキタ自身は鳥取県出身とのこと)。地方の旧家らしいしっかりした作りの家には不思議な祭壇のようなものがある。島には代々「罪喰い人」という職責の家系があり、それが今回の物語の比嘉家である。島に住む人々は自分の犯した罪を告白し、それを罪喰い人が喰らうことによって許されてきたという。比嘉家の父は亡くなり、罪喰い人になることを避けて失踪した長男、ふたりの弟、それぞれの妻たち、親戚や友人はどこへゆこうとしているのか。
誰かを傷つけること、誰かに傷つけられること。それを許すか許さないか。贖罪と魂の救済は、劇作家マキタカズオミが追及しつづけるテーマであると察する。愛をもって許し、憎しみの連鎖を断ち切ろうなどという意識は打ち砕かれ、許すことなどできないとひたすら相手を責め続ける被害者と、卑屈なまでにひれ伏しながら、どこかふてぶてしく居直ったかのような加害者が、これ以上ないというほど追いつめられ、落ち込んでゆく無間地獄。
みていて辛いとかやりきれないという感覚を越えて、醜悪なさまに耐えられず逃げだしたくなる恐怖と、それでも彼らの心を知りたいと心身が金縛りになり、それが却って爽快感をもたらす。自分はそんなマキタ作品の魅力にとりつかれたひとりである。
罪喰い人という、非常に土着性の強い専門職的な役割を負わされた一族が、あるものはそれから逃れようとし、あるものは敢えて受け入れようとし、あるものは積極的に守るでもなく壊すでもなく、どうにか保たれてきた均衡に少しずつ、確実にほころびを与える。またあるものは距離を置いていたのに一線を越えた暴挙にでる。それはすなわち一族の崩壊であり、島の住民たちのコミュニティーの破壊である。
人は生きている以上何らかの罪を犯しているのであり、人間レベルでは法的手段によるほかはない。それ以上を求めるとき、何が人を救ってくれるのか。家族や友人の支えや励まし、あるいは宗教的なものであろうか。
これまでマキタ作品をみたときは、いつも前のめりに身を乗り出し、終演後はいよいよつんのめるように何かを書こうとした。今回ことばがなかなか出てこなかったのはなぜだろうか。マキタの描く世界に食傷したわけではなく、むしろもっと強烈で醜悪でもかまわない、受けて立つ覚悟はできている。期待すらしている。最新作には、どこへ行こうとしているのか測りかねるとことがあり、劇作家の迷いや悩みもまた舞台の魅力につながることもあるのだが、「罪喰い人」というおどろおどろしい務めに縛られた一族とその周辺の人々の愛憎は、まだまだ突きつめられるのではないか。
「罪を喰ってもらったからといって、それで許せるのか。忘れられるのか」と問いかける台詞があった。そうなのだ。社会的な法律では人の悲しみは癒せない。罪喰い人はそれをいわば無理やり納得させ、あきらめさせる、なかったことにさせるシステムである。どうしても無理がある。それを救えるのは何か。一気に宗教にもっていければまだ楽かもしれない。マキタは社会の問題や、人のもつ根源的な悪の心を解決する方法を見出すために演劇を作っているのではないだろう。かといって、これが人間だ、ここまで醜いものだと提示するにとどまるものでもない。
劇の詳細を書かずに、自問自答を繰り返すような記事になってしまって申しわけない。自分の求めているものと、マキタが目指そうとしているものとのあいだにミスマッチが生じたのかもしれないが、むしろそういうものは望むところである。マキタカズオミはもっと先へ行けるはずだ。そしてもっと筆者を鍛えてほしい。いったんマキタの魅力にとりつかれた者はそう簡単に離れられない。それを筆者は幸せだと感謝しているのだから。
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