因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

Triglav 3rd work『ハツカネズミと人間』

2020-01-10 | 舞台

*公式サイトはこちら1,2)ジョン・スタインベック作 中西良介翻訳 新井ひかる演出(1,2,3,4マグカルシアター参加作品 神奈川県立青少年センター・スタジオHIKARI 12日まで
 硬質な作品に臆することなく堅実かつ柔軟に取り組むユニットが3回めの公演に選んだのは、スタインベックが「演劇を意識した初の作品」という『ハツカネズミと人間』だ。実はそれを知ったとき、単純に「楽しみだ!」と喜べなかった。20年以上前、いわゆる新劇系の演出と座組で本作を観劇したことがあり、その印象が芳しいものではなかったためである。その理由が、今夜の上演を見たことによって、かなりの部分が明確になった。

 客席が演技エリアを三方から囲む形を取り、床にはいくつかの平台や木箱のようなものが置かれている。台の上に鼠が一匹、そこに上演前から光が当てられている。モノを極力排した抽象的な舞台美術である(上田淳子・空間美術)。

 1930年代の大恐慌時代のアメリカはカリフォルニア州の農場を舞台にした物語だが、現代の日本に通じるところが少なくないことに気づく。定職に就けず、農場から農場を渡り歩くジョージとレニーの暮らしぶりは、まさに現代の非正規雇用者の不安定な状況を示す。また、おそらく何らかの知的障害を持つレニーを持て余しながら彼を完全に見捨てることができず、彼と他者のあいだを懸命に取り持ち、働き続けるジョージの苦悩は障がい者との共生の困難を示すものであり、先日初公判があった「やまゆり園」の傷害事件を想起させる。農場には、黒人ゆえに一般労働者と同じ寮に入れず、家畜小屋で寝起きを強いられている者がおり、マイノリティへのあからさまな差別もある。

 これらのことが、数十年前の外国の話と思えなかったのは、俳優の演技、人物造形が的確であったためであろう。どの人物も強い個性を持ち、俳優にとっては演じ甲斐があると思われるが、あざとく大仰になる危険性もある。ジョージの頭の良さは、レニーを抱えているがゆえに否応なく鍛えられた生活の知恵であり、永田涼はその悲しみと怒りを表情や口調に滲ませる。レニーに対してだけでなく、彼は自分自身に対しても怒りや困惑を抱えていると思うのである。レニーを「いかにも頭の弱い巨漢」として演じてしまうと、本作の魅力は半減する。ならばどうすればよいか。内藤栄一は決して作りすぎず、技巧を感じさせない造形で、こうするためにどのような演出がされたのか、非常に興味深い。リーダー格のスリム役の阿岐之将一は、トランプカードを扱う手つき、相手に話しかけるときの視点の向け方など、まったく隙を見せず、それでいて嫌味の無い演技で惚れ惚れするほどであった。農場主とその息子カーリーは上利青が二役で演じ、帽子ひとつで両者を演じ分ける。劇中最も「嫌な奴」なのだが、そういうボジションの人物にありがちな既視感のない演技であった。

 カーリーの妻(中坂弥樹)には名前がない。新婚の夫ですら妻を一度も名前で呼ばず、彼女がこのコミュニティで必要とされていないことが示されている。黒人労働者のクルックスと彼女は、「話を聞いてくれる人」を欲している点で、同じ孤独を抱えているのである。クルックスは眼鏡をかけ、ぶ厚い本を読む。もしかすると農場の中でもっともインテリかもしれず、それでも黒人ゆえに差別されている。家畜小屋にレニーが入り込んだ場面、クルックス(酒井和哉)の表情や口調の微妙な変化の様相は、見どころのひとつだ。彼はここで少しだけ笑うのである。

 すべての人物について書ききれなかったが、すべての俳優の演技が緻密で繊細であり、それでいて「いかにもそれらしい」造形がまったくなかったことによって、観客は自然に劇世界に引き込まれ、今の自分たちに通じる物語として感じ取れたのだと思う。

 何と悲しく、やりきれない物語であることか。同時に作り方によって、こうも違った印象になることに驚きつつ、同時に恐ろしさも覚えた。演出家とは、まさに作品の命を握る存在なのだ。2020年最初の1本が本作であったことの幸運に喜びながら、いささか背筋の寒くなる一夜であった。

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