*鄭義信作 森新太郎演出 公式サイトはこちら ステージ円 9日まで
自分にはアニメやコミックの知識や心得がほとんどない。本作に主演する朴璐美は『ウルトラヴァイオレット』の声優として絶大な人気を得ており、ロビーは朴への祝花でいっぱいだ。子どもの観客が多いように感じられたし、物販コーナーも賑やかで、いつもより高めの1000円のパンフレットに出演者のカラー写真がたくさん掲載されているのもファンサービスの表われだろうか。
パンフレット掲載の鼎談やシアターガイドの記事によれば、本作の企画は鄭義信に朴璐美と演出の森新太郎の熱烈なラブコールで実現したとのこと。夢はさまざまに語れても、実現にこぎつけるまでには多くの労苦があったことだろう。夢がかなった喜びと「いい舞台を作るぞ」という気合いが、劇場ロビーにも満ちていることが伝わってきた。
☆だが自分は作り手とは別の場所にいる。作り手側がいくら熱くても舞台そのものに引きつけられなければ、互いの距離は縮まらない。このあたりからご注意くださいませ☆
舞台前面ぎりぎりに薄い幕が下りていて、水浸しになったオフィスがある。台風で電車に乗れなかったサラリーマン2人(山崎健二、大窪晶)が難を逃れてやってくる。時代はバブル期だ。薄幕があくと舞台には砂が敷かれ、大きな水たまりが何カ所もある。九州地方の小さな漁村、時代は戦争中である。主人公の美砂子(朴)は足を負傷して復員した夫(渡辺穣)、盲目の姉(中條佐栄子)と幼い弟(石原由宇)を抱え、重圧感と閉塞感に苦しむ。漁の手伝いのために美砂子に雇われた流れ者の兄弟(石田登星、吉澤宙彦)は、朝鮮半島からの出稼ぎである。生まれた土地に縛られ逃れられない美砂子たちと生まれた土地を奪われた兄弟がぶつかり合い苦しみもがくさまと、幼い弟の40年後と思われるサラリーマン(山崎)の情景が行き来しながら物語が進む。
劇作家には「ここ(ステージ円)に水を張ったらどうだろう」というイメージがあったそうだ。ベンチ席の観客には大きなビニールシートが配布され、舞台から飛び散る水や砂を避けながらの観劇となった。水は人を閉じ込め、不自由にする。戦争もなく、物が豊かに溢れていても現代のサラリーマンはまさに水によって身動きができなくなっている。戦時中の人々は諍いが絶えず、取っ組み合い、つかみ合いのたびに水たまりの中に倒れ込む。水に濡れた俳優というのはどういうわけか急に生々しい魅力を発する(特に女優は)ことはよくわかったが、あそこまでのべくまくなしに水飛沫が上がっては新鮮味がなくなり、本水を張ることがほんとうに必要だったのかと疑問がわく。また流れ者の兄弟はスタインベックの『二十日鼠と人間』を非常にベタに思い起こさせる。
要するに不完全燃焼の観劇だったのだが、同道の友人とおいしいハンバーグの夕食で満腹し、温かい灯りのともる浅草の商店街を散策して、とても楽しい1日になってしまった…というのは妙な表現なのだが、これは案外深刻な問題なのではないかと思う。浅草に限らず、街には多くのものが溢れており、さっきみた舞台が楽しめなくても食事や買い物やおしゃべりで紛らわせてしまえるのである。それに来週も再来週も違う舞台をみに行くことができるのだから。何もその1日を落ち込んで過ごすことはないし、気を取り直して新しいものに向かいたい。しかしその気の取り直し方を、もう少し考えたいと思う。たくさんの舞台を見られる環境にあり、ともに楽しむ友がいて、またその楽しさを表現する手段を与えられているのだから。
自分にはアニメやコミックの知識や心得がほとんどない。本作に主演する朴璐美は『ウルトラヴァイオレット』の声優として絶大な人気を得ており、ロビーは朴への祝花でいっぱいだ。子どもの観客が多いように感じられたし、物販コーナーも賑やかで、いつもより高めの1000円のパンフレットに出演者のカラー写真がたくさん掲載されているのもファンサービスの表われだろうか。
パンフレット掲載の鼎談やシアターガイドの記事によれば、本作の企画は鄭義信に朴璐美と演出の森新太郎の熱烈なラブコールで実現したとのこと。夢はさまざまに語れても、実現にこぎつけるまでには多くの労苦があったことだろう。夢がかなった喜びと「いい舞台を作るぞ」という気合いが、劇場ロビーにも満ちていることが伝わってきた。
☆だが自分は作り手とは別の場所にいる。作り手側がいくら熱くても舞台そのものに引きつけられなければ、互いの距離は縮まらない。このあたりからご注意くださいませ☆
舞台前面ぎりぎりに薄い幕が下りていて、水浸しになったオフィスがある。台風で電車に乗れなかったサラリーマン2人(山崎健二、大窪晶)が難を逃れてやってくる。時代はバブル期だ。薄幕があくと舞台には砂が敷かれ、大きな水たまりが何カ所もある。九州地方の小さな漁村、時代は戦争中である。主人公の美砂子(朴)は足を負傷して復員した夫(渡辺穣)、盲目の姉(中條佐栄子)と幼い弟(石原由宇)を抱え、重圧感と閉塞感に苦しむ。漁の手伝いのために美砂子に雇われた流れ者の兄弟(石田登星、吉澤宙彦)は、朝鮮半島からの出稼ぎである。生まれた土地に縛られ逃れられない美砂子たちと生まれた土地を奪われた兄弟がぶつかり合い苦しみもがくさまと、幼い弟の40年後と思われるサラリーマン(山崎)の情景が行き来しながら物語が進む。
劇作家には「ここ(ステージ円)に水を張ったらどうだろう」というイメージがあったそうだ。ベンチ席の観客には大きなビニールシートが配布され、舞台から飛び散る水や砂を避けながらの観劇となった。水は人を閉じ込め、不自由にする。戦争もなく、物が豊かに溢れていても現代のサラリーマンはまさに水によって身動きができなくなっている。戦時中の人々は諍いが絶えず、取っ組み合い、つかみ合いのたびに水たまりの中に倒れ込む。水に濡れた俳優というのはどういうわけか急に生々しい魅力を発する(特に女優は)ことはよくわかったが、あそこまでのべくまくなしに水飛沫が上がっては新鮮味がなくなり、本水を張ることがほんとうに必要だったのかと疑問がわく。また流れ者の兄弟はスタインベックの『二十日鼠と人間』を非常にベタに思い起こさせる。
要するに不完全燃焼の観劇だったのだが、同道の友人とおいしいハンバーグの夕食で満腹し、温かい灯りのともる浅草の商店街を散策して、とても楽しい1日になってしまった…というのは妙な表現なのだが、これは案外深刻な問題なのではないかと思う。浅草に限らず、街には多くのものが溢れており、さっきみた舞台が楽しめなくても食事や買い物やおしゃべりで紛らわせてしまえるのである。それに来週も再来週も違う舞台をみに行くことができるのだから。何もその1日を落ち込んで過ごすことはないし、気を取り直して新しいものに向かいたい。しかしその気の取り直し方を、もう少し考えたいと思う。たくさんの舞台を見られる環境にあり、ともに楽しむ友がいて、またその楽しさを表現する手段を与えられているのだから。
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