*原作 J・フレッチャー 翻訳 コラプターズ(学生翻訳チーム)プロデューサー 金子真紘 演出 養父明音( 1,2,3,4,5,6,7,8 )公式サイトはこちら 明治大学駿河台キャンパス・アカデミーコモン 6日まで
今回のシェイクスピアの『夏の夜の夢』と、J・フレッチャー『二人の貴公子』の交互上演にあたっては、2016年の第13回公演が『Midsummer Nightmare』のタイトルで、2つの作品をひとつに再構成し、二部作として上演されたことを踏まえておく必要がある。公演パンフレット記載のコーディネーター・井上優教授の寄稿によれば、コロナ禍に鑑み、「二部作ではなく、2本立てにして、状況が許せば2本上演のつもりで準備を進めるが、厳しい場合は『夏の夜の夢』のみにする」という、感染状況の変化に対応可能な形式を試みたとのこと。ここに大きな特徴がある。無事に開幕し、3日間で6回の交互上演が実現しそうであるのはほんとうに喜ばしいが、本編前にはラボ公演『短夜、夢ふたつ』の上演もあり、稽古のスケジュールや人員の配置など、大変な苦労があったのではないか。
『夏の夜の夢』は、いたずらものの妖精パックが魔法を間違ったために恋人たちのあいだで大騒動が起こる物語だ。したたかなパックはその騒動を利用して、最後はちゃんと元の鞘に納めてしまい、まさに終わり良ければ総て良しの大団円なのだが、『二人の貴公子』は趣の異なる作品だ。パックの魔法によって、いとこ同士にして大親友だったアーサイトとパラモンは一人の美女エミーリアを巡って決闘も辞さない状況に陥る。さらにそのうちの一人を好きになった牢番の娘は恋の病で気が狂ってしまう。一人が恋人を得れば、もう一人には死が待っているという地獄のような展開なのである。
好みの問題になろうが、「イケメン」などの現代語にはやはり違和感があり、貴公子たちが互いに決闘の装束を整える、なかなかよい場面があるのだが、グローブのやりとりの際、「サイズが違う」という台詞が、「大きさ」ではだめなのか、心を病んだ牢番の娘と、彼女を献身的に接する求婚者の会話で、「同じ布団で寝てくれる?」の「布団」に引っかかったり、楽隊の音色等々、気になるところは少なくない。
しかし丁寧な細かい気配りでプロ顔負けの対応を見せる制作スタッフや、舞台を走り回るキャスト、客席から見えないそれぞれの持ち場で務めを果たしている大勢のスタッフを思うと、100年に一度と言われるコロナ禍と貴重な大学生活が重なるという不運のなかで、これほどのイベントを実現させたことの何と尊いことか。野暮は言うまい。
9月のラボ公演を含めて改めて感じるのは、父親役など年輩の役柄を演じるキャストに無理な造形がないことである。今回の牢番の父は髪に少し白髪を見せるだけだが、違和感なく父親に見える。終盤も心配そうに娘を見やるところなど温かみのある演出であり、演技であった。またシーシアスやヒポリタ役など、「いったい何年生か?!」と思うほど堂々たる貫禄で、適材適所の配役がなされ、学生もまたそれに応えている。
幸せはひと色ではない。誰かの幸せの向こうには別の人の不幸があり、笑顔を見せていても、消しようのない悲しみを湛えていることもある。一筋縄ではゆかない人生、人間というものがより生々しく炙り出される。深く、苦い味わいの作品で、このあとの『夏の夜の夢』観劇にどのような影響を及ぼすのか、期待が高まる。
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