*室生犀星原作 金子洋文脚色 原田一樹演出 公式サイトはこちら 文化座アトリエ 4日まで(1,2)
田端文士シリーズ、室生犀星没後50年、劇団創立70周年記念と劇団の歴史をずっしりと背負った舞台である。寒村のあばらや、古びた筧(かけい)や可憐に咲く夏菊と、小さなアトリエには肩を寄せあって生きる家族の息づかいまでもが感じられる作り。
この『兄いもうと』は劇団創立の年、つまり70年前に初演され、そのときと同じ金子洋文の脚色であるとのこと。文化座の堂々たる財産演目である舞台は休憩なしの75分。重い手ごたえを残すものであった。
折りあいが悪く諍いの絶えない家族というのは現実にあるが、芝居やドラマで描かれるとき、どこかコメディの味つけでどたばた家族ものになることが多い。何とまあもめごとの多い家だなとあきれながら、懲りもせずに喧嘩をつづけるすがたはどこかユーモラスですらある。それは「喧嘩するほど仲がいい」ということばが象徴する人情喜劇に収まるのである。
『兄いもうと』は笑えるところが一か所もない。口汚く罵りあうだけでなく、互いにはたちを過ぎたきょうだいがつかみ合いの大喧嘩をするのである。
ほかの家族がいくらからだを張って諌めても留まるところを知らない。和解のきざしもなく、夕暮れが訪れる終幕はやりきれないものが漂う。
顔をみればいがみ合い、けがをするほど大立ち回りの喧嘩をする兄と妹。しかしこのふたりが子どものころはひとつ布団で寝て、兄は妹をおんぶしてでないと遊びに出た気がしないほど可愛がっていたようすが、不思議なことに想像できるのだ。
蛇蝎のごとく忌み嫌うきょうだいのすがたは濃厚な愛情の裏返しであり、兄からすればこれほど愛して可愛がっていた妹が男に捨てられて自堕落な女になったことへの怒り、妹にしてみれば、思い込みのなかに自分を閉じ込めようとする兄への反発もあるだろう。
とすると愛情ゆえの憎しみということなのか。いやそれもしっくりこない。
公演パンフレットに記された演出の原田一樹のことばを読み返す。「(本作は)決して愛の物語ではない。鬼の中に仏を見ようとする行為なのだとは言えるかもしれない」。
兄といもうとがあふれるようにことばを投げつけ、からだをぶつけあう話なのに、どこか本質をはずしているかのように見受けられる。ここまで言い合いをしながら「これを言ったらおしまい」という最悪のラインを無意識に避けているのだろうか。
これからこの家族がどうなるのか希望のみえない終幕である。しかし自分はこの劇世界に強く惹かれた。家族が恥や弱みを「さらけだす」内容であるのだが、どこか「ひとさまにみせられるのはここまで」というわきまえや奥ゆかしさが感じられるからである。
実際に起きた事件をベースにする劇作家の作品において、リアルの度合が過ぎたり、あるいは見せ方の方向性(この言い方ではわかりにくいが)が「どうしても違う」と違和感を覚えることが多い。その感覚をいまだ的確に表現できないが、今日の『兄いもうと』はひとつのきっかけになるであろう。
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