因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団印象『値札のない戦争』

2013-10-28 | 舞台

*鈴木アツト作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 28日で終了 (1,2,3,4 5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17) 第20回BeSeTo演劇祭 BeSeTo+参加作品として、B・ブレヒト作 山縣美札振付・演出の『残跡/ユダヤ人種の妻』と交互上演された。
 鈴木アツトが作・演出をつとめる劇団印象の舞台をみるようになって、もう6年が過ぎた。SF風のファンタジックな設定が多く、明るくコミカルな表現で進行する物語は、客席を笑いで包みながら深く静かな結末へ導く。胸が痛むときもあれば、背筋が寒くなるときもある。『父産』(とうさん)、『枕闇』(まくらやみ)など、独特のタイトルに込められた劇作家の思いを受けとめられたときの喜びは大きい。劇作家の誠実で素直な作風もさることながら、それを見守る温かな客席の雰囲気はとても好ましいもので、自分も遅ればせながらそこに加われたことを幸せに思っている。

 鈴木は2010年より韓国の演劇人との国際共同制作を開始した。韓国人女優ベク・ソヌを客演に迎えた『匂衣』(におい)の舞台成果はすばらしいもので、まさに新境地を開いたといえよう。その後も劇団内の活動におさまらず、韓国の劇作家の戯曲の演出、リーディング公演の演出など、活動が多方面に広がっている。
 今回はBeSeTo+参加作品ということもあり、「韓国の俳優と共演する」ことに留まらない作品を目指したとのことだ。タイトルもこれまでとはまったく異なるものであり、呉致雲との共同演出など、並々ならぬ気合いが感じられる。

 これまではタイニイアリスでみることが多かったが、今回のこまばアゴラ劇場は天井も両そでもゆったりしている。
 客席ぎりぎり前まで出てきて壁に耳を押しつけている男女。隣室の痴話げんかに聞き入っているのだ。男性(泉正太郎)は月の国(たぶん日本を指す)の人、女性(ベク・ソヌ)は星の国(こちらは韓国を指す)の人で、隣室からの会話は女性の国のことばで行われており、すさまじい罵詈雑言を通訳しながら楽しんでいるのである。ふたりはほんとうに客席に入りそうなほどの位置におり、すがたがみえず実際の声も聞こえない隣室のカップルの様子も伝わってきて、この幕あけには大いに惹きつけられた。
 男性はヌード専門のカメラマン、女性もカメラマンだが戦場を仕事場としてきた。4年前に戦争がおわってからは目下失業中の身である。

 と、このように多くの試みに挑戦したと思われる『値札のない戦争』を身を乗り出してみはじめたのだが、途中から急に集中できなくなった。必死でふり払おうとしてもそのたびに眠気に襲われる。体調はいつもと変わりなく、ことさら睡眠不足で疲れていたわけではない。目の前の舞台を受けとることができなかったのだ。
 鈴木アツト作品においてこのようなことははじめてであり、正直なところ非常に困惑し、動揺した。劇作家のご厚意によって上演台本を読ませていただいて、まずはそれを一読した。

 おもしろい。会話のテンポもよく、どんどん読める。力作である。見落とした場面のやりとりの内容も理解し、その読後感をもって再度観劇する機会が与えられた。よし今度こそ。

 ところが、またしても眠気に襲われたのである。どうしてだろう?

 戯曲は非常にシンプルなものだ。ト書きは人物の動きなど最低限のもので、演技や造形の指示は記されていない。ここで「共同演出」というものが具体的にどのように行われたのかが気になるのである。
 自分が集中できなくなったのは、2度ともほぼ同じ箇所からであった。男女ふたりのカメラマンのやりとりに続いて、彼のマネージャーがやってくる。つづいて核シェルターの営業をしに星の国の女性がずかずかと登場して・・・このあたりからなのである。
 要因のひとつはシェルター売人を演じる韓国の女優の台詞が聴きとりにくいことや、人物の造形がややけたたましい点である。しかし彼女が要因のすべてではなく、ぜんたいとして舞台のスピードやテンポやリズム(どんどんあいまいになる・・・)がぎくしゃくしているのである。

 若いカップルは月の国と星の国の男女である。その痴話げんかを戦争責任をめぐる日韓の問題にもってくるところなど、この物語がただごとではないことをごく日常的な問題から提示しており、舞台には早い段階から緊張が走る
 続いて戦場の兵士が登場し、写真が嘘をつくこと、写真には被写体と撮ろうとする相手との関係性が写るという写真の原理についてのやりとりもあって、さらに竹島を想起させる「雨の島」についてのあれこれもあり、提示される問題の数、内容、深さや複雑さなど、客席に投げかけられるものが非常に多い。客席の理解を導くには俳優の演技がまだこなれておらず、彼らが激しい感情をあらわにしても、どうにもついてゆけない。

 戯曲を目で読んで、頭で理解するには何とかだいじょうぶだ。しかし目の前の舞台をずっと集中してみるのは非常にむずかしいものがあった、ということなのだ。
 戯曲の台詞が俳優の声とからだになじみ、自分の役のことばとして発するには、もう少し時間が必要だったのではないか。その過程において削ぎおとすところ、強調するところの緩急がつかめれば、もっと伝わってくるものが生まれる。

 おそらく本作にはこれまでになく厳しい意見や評価があったことだろう。自分もここまで困惑したのははじめてだ。いつもなら終演後の挨拶まで観客は非常に好意的なまなざしで温かく見守るが、千秋楽では終演したとたんに席をたち、制作者が挨拶をしているのも構わず退出する方もあった。単に小劇場の様子をご存じなかっただけではなく、厳しい言い方になるがやはり今回の舞台に対する意志表明のひとつと思われる。作り手にとっては辛いふるまいであろうが、ここは辛抱して受けとめるほかはない。
 鈴木アツトの最新作『値札のない戦争』が意欲作であり、力作であることはまちがいなく、ここからさらなる飛躍を強く期待するものである。

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