因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

風琴工房code.31『記憶、或いは辺境』

2012-06-30 | 舞台

*詩森ろば作・演出 公式サイトはこちら 池袋 シアターKASSAI 7月8日まで (1,2,3,4,5,6,7,89,10,11,12,13)
 風琴工房20周年記念公演の第一弾。本作の初演が詩森ろば作品との出会いであり、いまだに強い印象が残る。大切な舞台との出会いの記憶は幸せでもあり、やっかいでもある。再演を喜びながら、前回の舞台との比較に終始して新鮮な気持ちで味わえないことが少なからずあるからだ。風琴工房の公演で通い慣れた下北沢のスズナリではなく、新しい劇場での上演が、気持ちの切り替えの一助になるだろうか。

 樺太にある津田理髪店の兄妹たち、常連客や朝鮮からやってきた人々との1944年から敗戦をはさんで8年間の交流が心をこめて丁寧に描かれた作品だ。配役はすべて変わり、上演台本も一部改訂されている。
 津田理髪店は両親なきあと兄とふたりの妹が仲良く切り盛りしている。下宿人の教師、警官をしている昔なじみと交わすやりとりは温かく、やさしい。そこにひとりの朝鮮人男性がやってきた。髪を切ってほしいのではなく、「髪を切らせてほしい」というのだ。

 理髪店の妹のひとり津田美都子のヘアスタイル、後半でみじかめのおかっぱになった状態が演じる女優さんの地毛で、冒頭からしばらくの長い髪はウィッグであると察せられる。それを束ねも結いもせず、だらりと長いままにしているのがいかにも不自然であった。床屋のむすめなら、もう少し整った形にしているのでは?
 また後半でキムチを漬けるためにほんものの白菜の葉をはがす場面がある。この梅雨どきに高値の白菜を千秋楽までいくつ用意しなければならないかという心配もさることながら、この場面の津田美都子と仙女との会話はたいへん重要かつ味わい深いものであり、それを手仕事をしながら自然にみせ、具体的なモノ(白菜)が容赦なく存在することを活かすのはむずかしい。何気なく見せながら確実に生の生活実感を出してこそ、モノが存在する必然性が示される。手仕事は中途半端なままで終わって次の場面になってしまい、わざわざほんものの白菜を出したのがかえって不自然な印象であった。
 ここで思い出したのが『hg』公演である。冒頭、女性事務員や上司たち数人が会議ためのテーブルや椅子のセッティングをしながら会話をする場面について、あるサイトに「たった5脚の椅子を並べられないとは」という指摘があった。人物はいずれも動揺や不安を吐露するという状況ではあったが、結果的に不自然な印象を与えたことになり、台詞とモノを扱う動作を有効に結びつけるのはこちらが思うより難易度の高いことであり、そのわりに効果をあげない場合は即座に客席に伝わってしまいがちであることがわかる。

 細かいことの指摘が長くなったが、いずれも今回の舞台を味わうための大きな妨げには至らない。俳優のひとりが降板して代役がたつという経緯があったものの、常連の客演も初参加も互いの信頼関係がしっかりとあって、詩森ろばの劇世界に違和感なく存在していることはたしかであった。とくに津田美都子を演じた津留崎夏子、彼女と心を通い合わせる朴大鳳の金成均が心に残る。美都子の髪を切りながら互いが別れを受け入れる場面は悲しく美しい。
 『記憶、或いは辺境』との再会は、自分にとってやはり嬉しいものであり、詩森ろば作品に触れてきたこれまでとこれからを考えるために必要なものであった。                               

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