『サルトリイバラ』(朱花かの子)・・・タイトルは「猿捕茨」という茎に棘を持つ植物の名。「棘が絡みついて、これでは猿も身動きできない」の意だそうだ。四国は土佐の過疎の村、老人と、限界集落を研究している女性が稲を刈っていると、遍路の恰好をした若い男がやってくる。過疎の悩みや老人を食い物にする悪徳商法の被害が語られて、そこに現れた妙な男がやはり…という展開は、老人と女性の会話が地元の言葉による生き生きして、地に足のついた安定感があるのに比べ、若い男の東京言葉がいかにも軽いことからも、わりあいすぐに読めてしまう。いや、もしかするとその男にも何らかの背景や事情があるのではと期待したのだが。もう少し尺があれば違う物語になったのだろうか。
『きときとばあちゃん』(ナガノユキノ)・・・北陸の老人養護施設の入居者でありながら、「半分ボランティア」の意味の「半ボラ」として食事作りなどの施設業務にも携わっている「トメ」さんのもとに、ひとりの訪問者が現れる。ひとり芝居の場合、相手の台詞を聞き返す形を取る(たとえば「え?〇〇がどうして✕✕したのかって?」)ことに対してどうしても不自然な感覚があり、今回の作品にはことさらにその形式が多かったのだが、演じる田根楽子の台詞は、少し耳の遠い老人が相手の言葉を聞き返す様子とも思われるほど自然であり、違和感は感じなかった。30年ほど前、作者が北陸電力の原子力発電所の前で座り込みをしている人々に話を聞いた体験が元になっているとのこと(公演パンフレットより)。作者の耳と心には何人もの声が響き続けていたのだろう。その声が田根楽子によって、温かなひとり芝居に結実した。
『2020年12月』(川村毅)・・・「昨年11月にリーディング上演した『2020年3月』、『2020年4月』、『2020年5月』に続く。わたしたちの現在」(公演パンフレットより。残念ながらいずれも未見)は、大晦日の夜、電源の入っていないパソコンに向き合って「ひとりリモート会議」をしている老人(小林勝也)、彼を訪ねて来る自称友人の男(伊東潤)、東中野駅のホームで知り合った女(高木珠里)によるリーディングである。
公演の最後の最後に真打登場!といったところか、抑制しつつも客席はたびたび笑いに包まれ、大いに盛り上がった。リーディング形式ではもったいない、本式の上演ならさぞかし。いやシンプルなリーディングであるから、台詞の一つひとつが粒だって確実に届いたのでは?等々、演劇を観ること、台詞を聞くことの楽しさがからだじゅうを駆け巡るようであった。とくに小林勝也は、面白く見せよう聞かせようという意識から解放され(ているように見える)、伸び伸びと自在に、しかし物語ぜんたいを明確に把握して、相手役との間合いやテンポなども絶妙である。いや、多少ずれてしまうところもあるのだが、それさえ面白みに変容して、川村毅の戯曲の台詞、そのリズムや空気といったものが手の内に入っており、演じながら客席の反応も味わいつつ、自分も楽しむ境地に至っているのではないだろうか。劇作家と俳優の幸せな出会いは、観客にとっても大いなる幸せである。『路上』シリーズはもちろんのこと、今後も新作をぜひに。
上演のあと、川村毅とメイン俳優8人によるクロージングトークが行われた。今回作品を書いた劇作家方も来場されており、昨年10月のキックオフミーティングに始まり、「一人でも陽性者が出たら公演中止」の危機に脅かされながら、出来得る限りの感染予防対策を行って、無事に公演が終わったことに感慨ひとしおの様子であった。
俳優方が異口同音に語っておられたのが、戯曲の文体が変われば演技も変えなければならない、短編だからと甘く見ていた等々、異なる劇作家の作品を次々に演じる苦労であった。たとえば楽器でト長調(#ひとつ)のあとにヘ長調(♭ひとつ)、つぎにニ長調(#ふたつ)の曲を続けて演奏する場合、指使いや耳の切り替えは容易ではなく、よほど練習を積まなければ安定した演奏はできない。また会食や飲み会などの交流の機会を全く持てなかったことや、稽古場の人数制限をするなど、コミュニケーションをとることも難しかったそうで、ただでさえハードな形式の公演に、この困難な状況で挑戦されたすべての関係者に、改めて敬意を表したい。
トーク後半では来場の劇作家もひと言ずつ発言された。上演の機会が与えられたことへの感謝、演出家と俳優の力で、自分がたどり着きたかったその先へ作品が進んでいったことへの喜びなど胸を打つものがあり、客席には都度温かな拍手が沸いた。興味深かったのは、自作の演出を他者に委ねたときの劇作家の胸の内である。「死ねと思う」(若手の方。お名前失念)、「ぶっ殺してやろうと思う」(これは川村氏)そうである。いや、そういうものなのか。
なぜもの足りないのか。尺が長ければ十分に書けたのか。あるいは劇作家みずからが演出し、それぞれ自分が所属する劇団の俳優陣が演じたなら、別の色合いが生まれたのではないか…と感じる作品もあった。2011年から2012年にかけて上演された『日本の問題』シリーズで、20分の上演時間、各劇団の凄まじい集中力や「ほかの舞台に負けるものか」と火花を散らす迫力を、今回の「2020年の世界」各作品も秘めているのではないかと想像するのである。
俳優方が口にされた「短編戯曲だからと甘く見ていた」という感覚は、観客にとっても耳の痛いものであった。観る側もステージごとに心身を切り替え、それぞれの手応えを確と感じ取るなど、今後の観劇に向けて課題は多い。背筋の伸びる思いである。
この企画は第2回、第3回と継続していくそうで、大変嬉しく楽しみである。引き続き感染対策をとって心身の健康を守り、また劇場で新しい作品に会いたい。その思いをいっそう強くした。やはり自分にとって、演劇は生きる希望である。
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