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二二六事件69年目にあたり

2005年07月12日 19時43分09秒 | 時事放談: 国内編
昨年、軍事都市東京探訪というスローガンを立てて、東京の中心部をビデオカメラを片手によく歩きました。

なあに、そんなに偉そうな話ではありません。昨年2月に通風の発作が出て、生活習慣病の巣窟であることが判明し、医者から減量を命じられたために、ひたすら歩き回っただけです。

その時には当然二二六事件慰霊像にも行きました。東京都渋谷区神南のNHKの前、渋谷区税務署の横に建てられています。

元々NHK辺りが陸軍刑務所のあったところですから、二二六事件の首謀者たちもその近くで最期を迎えたと想像されます。銃殺刑でした。

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2・26事件、将校ら17人の遺書発見 (読売新聞) - goo ニュース

2005年 7月12日 (火) 03:01

 「2・26事件」(1936年2月26日)で、処刑された陸軍の青年将校ら17人分の遺書45枚が69年ぶりに見つかった。

 処刑前に入っていた陸軍刑務所の看守にあてたものなどで、自宅に保管していた仙台市太白区の平田俊夫さん(77)から、将校らの遺族で作る「仏心会」に届けられた。七十回忌が営まれる12日、東京・港区の賢崇寺で関係者に公開される。

 専門家は、「今になって、これだけの数の遺書が見つかったのは奇跡に近い」と話している。

 2・26事件に関し、青年将校らの肉親あての遺書や手記をまとめた本の多くは昭和30~40年代に出版されているが、近年、新たな肉筆の発見はなかった。

 見つかった遺書は、軍法会議で死刑判決を受けた19人のうち、民間人の北一輝と西田税(みつぎ)・元陸軍少尉を除く17人分。

 遺書には「大君(おおきみ)に 御國(くに)思ひて 斃(たお)れける 若き男乃子(おのこ)の心捧(ささ)けん」(栗原安秀中尉)、「流れ星惜しくも消えしあかつきに 差し出で給へ朝の御光 謝御厚情 花淵警査殿」(中島莞爾少尉)などの辞世の句や漢詩、さらに、世話になった看守に向け「入所中ノ御厚情ヲ深謝シ奉ル 只吾人ノ真精神ハ兄等ノミゾ知ル」(丹生誠忠中尉)といった言葉が署名とともに毛筆で書かれている。

 「仏心会」世話役の安田善三郎さん(79)(神奈川県葉山町)が、筆跡などから青年将校らの直筆と確認した。

 平田さんによると、1930年代後半、父・平治さんを「花淵」という友人が訪ね、「今は公にできないので預かってほしい」と、油紙に包んだ遺書の束を置いていったという。

 花淵氏はもともと仙台の陸軍師団に勤務しており、事件後、東京の陸軍刑務所に看守として派遣され、捕らえられた青年将校らの世話をしていた。76年刊行の「私の二・二六事件」(河野司著、河出書房新社)によると、応援要員で「花淵栄吉」という看守が派遣されており、この人物が花淵氏とみられる。

 花淵氏、平治さんとも65年ごろまでに死去、遺書は平田さんの手元に残された。平田さんは、書物で「仏心会」の存在を知り、安田さんに先月、連絡した。

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二二六事件を現代のわれわれがどのように捉えるべきか、難しい問題が一杯あることは分かっておりますが、このような遺書が事件から69年目に陽の目を浴びるようになったという話を聞くと、何ともやるせなくなります。

(確か、この方々は、靖国に祀られていないはずですから。記憶違いでしたら、お許しください。)

なお、我が高倉健さんにもこの二二六を扱った映画があります。吉永小百合と共演した『動乱』という映画です。

映画自体はそれほど感心できる出来ではありません。第一、健さんの実年齢が当時49歳。到底青年将校をやれる年齢ではないのであります。しかし、健さんの抑制された演技により青年将校の悔しさは数ある二二六映画の中で一番よく出ている気がするのが不思議なところです。

ともあれ、皆様のご冥福を祈らせていただきます。合掌。
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