要約引用――「死の恐怖から逃れるための最大の処方箋だった宗教が力を失った今、「自分の死を平穏に受け入れる」ために必要なものは、「教養」だけである。単なる知識ではない、「死ぬための教養」こそが、「自己の終焉」を納得するための武器となるのだ。五度も死にかけた著者が、宇宙論から闘病記まで四十六冊を厳選!これが、「死」を自己のものとして受け入れる教養である。」
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ああ、この本、タイトルで損をしました。いまの日本人に「教養」と言ってもダメなのです。すごくありがたい何かが「キョーヨー」だと思っていますから、まともにこの言葉を使うとそっぽ向かれてしまいます。ネット上での批評にそういうマイナス批評が出ても、ゴウ先生不思議ではありません。
しかし、著者の持つパロディ精神が出た本だと思って手に取ったゴウ先生、不謹慎な言い方ですが、ワクワクしながら読み終えました。ページをめくるのが嬉しく、終わりに近づくのが惜しいと思わせてくれた稀有な本です。こうした体験は、新潮新書の中では『野垂れ死に』以来でした。
どちらの本にも共通しているのは、「死」に対するそれぞれの著者のはっきりとしていた、どこか死をからかいのめすポジションが見えるということです。
秀行先生は80歳をとうに越されたいま「早く殺しやがれ、バカヤロー」と達観しながら死神の訪れを待ち、嵐山さんは5回の死にかけた体験から若くして死神と遊べるコツをお持ちのように感じられます。
変な表現ですが、お二人にとって、死はもはや特別な「ドラマ」ではないのかもしれません。もっと身近な「生き方」の一つのような気がします。みんなが期待する難しいキョーヨーさえ必要ないのです。
だって、お二人とも酒をかっ食らって血を吐いたり、ガンになられたりしても、同情できないではないですか。笑ってくださいと思って書いてらっしゃる気がします。それが大真面目におやりになるから、心地よい軽さも生まれてくるのです。
もちろん、そんなお二人に「宗教」など必要ありません。秀行先生には囲碁への愛情が、そして嵐山さんには「死ぬための教養」があるのでしょう。
その一つの証拠に、この本において嵐山さんは、病死・事故死・自殺などさまざまな死の形態を論じておられますが、「戦死」を除外されています。ゴウ先生はこれを意図的な判断だと考えます。
戦死が日常的であった時代や社会においては、死はドラマです。ドラマにはそのドラマを盛り上げる小道具・大道具が必要です。その一つに「宗教」というものがあるのです。
お国のために命を捧げた若き英霊たちのために、その死して荒ぶる魂を治めるために、どの国でも宗教は戦いとともにありました。
しかし戦後60年、日本にそのドラマはありません。突如訪れる大義hある死の代わりに、自分の不摂生を後悔しながらじわじわと押し寄せる恐怖と戦いながら死を待つことが日常になってしまったのです。
つまり、われわれは理不尽な死の悼みを癒す宗教を必要とするのではなく、予期しうる人生の終焉としての死を迎えるための教養で対応できる時代に生きているのです。
この意味で、当書は、死ぬための教養を培う単なる読書ガイドという役割を超えて、形を変えた痛烈な現代に対する文明批判へと転換している気がします。
だって、46冊の本を読めば、死ぬのが怖くなくなるキョーヨーが身につくとはどこにも書かれていないではないですか!
その文明批判の基礎となる、ここで紹介される46冊の本は、著者の練達の筆によりどれも魅力的な本に思えます。そしてゴウ先生が読んだ本に関する紹介に即して判断しても著者の見立てに狂いはない気がします。現代人にとって必須の読書ガイドの一つだと断言できます。
お年を召した方ばかりでなく、若いからこそ考えるべき死の重みを、この本を通じて思い巡らすのは悪くないことだと信じます。一見軽妙に流れる筆のタッチを楽しみつつもだまされず、著者の思いを汲み取りましょう。
ゴウ先生ランキング: A
読んでください。著者本人の素晴らしい本の数々との出会いにドキドキすること請け合いです。
付記:ゴウ先生が上智大学の学生だった頃(1981年-1988年)、我が母校ではアルフォンス・デーケン神父が「死の哲学」という講座を持っていました。ゴウ先生も受講したことがあります。すごい人気でした。いまはどうなのでしょう。そうした難解な講座に人気が集まっているのでしょうか。キョーヨーを超えて、いまこそ「死」と真剣に向き合わなければならない時代のような気がするのですが・・・。
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ああ、この本、タイトルで損をしました。いまの日本人に「教養」と言ってもダメなのです。すごくありがたい何かが「キョーヨー」だと思っていますから、まともにこの言葉を使うとそっぽ向かれてしまいます。ネット上での批評にそういうマイナス批評が出ても、ゴウ先生不思議ではありません。
しかし、著者の持つパロディ精神が出た本だと思って手に取ったゴウ先生、不謹慎な言い方ですが、ワクワクしながら読み終えました。ページをめくるのが嬉しく、終わりに近づくのが惜しいと思わせてくれた稀有な本です。こうした体験は、新潮新書の中では『野垂れ死に』以来でした。
どちらの本にも共通しているのは、「死」に対するそれぞれの著者のはっきりとしていた、どこか死をからかいのめすポジションが見えるということです。
秀行先生は80歳をとうに越されたいま「早く殺しやがれ、バカヤロー」と達観しながら死神の訪れを待ち、嵐山さんは5回の死にかけた体験から若くして死神と遊べるコツをお持ちのように感じられます。
変な表現ですが、お二人にとって、死はもはや特別な「ドラマ」ではないのかもしれません。もっと身近な「生き方」の一つのような気がします。みんなが期待する難しいキョーヨーさえ必要ないのです。
だって、お二人とも酒をかっ食らって血を吐いたり、ガンになられたりしても、同情できないではないですか。笑ってくださいと思って書いてらっしゃる気がします。それが大真面目におやりになるから、心地よい軽さも生まれてくるのです。
もちろん、そんなお二人に「宗教」など必要ありません。秀行先生には囲碁への愛情が、そして嵐山さんには「死ぬための教養」があるのでしょう。
その一つの証拠に、この本において嵐山さんは、病死・事故死・自殺などさまざまな死の形態を論じておられますが、「戦死」を除外されています。ゴウ先生はこれを意図的な判断だと考えます。
戦死が日常的であった時代や社会においては、死はドラマです。ドラマにはそのドラマを盛り上げる小道具・大道具が必要です。その一つに「宗教」というものがあるのです。
お国のために命を捧げた若き英霊たちのために、その死して荒ぶる魂を治めるために、どの国でも宗教は戦いとともにありました。
しかし戦後60年、日本にそのドラマはありません。突如訪れる大義hある死の代わりに、自分の不摂生を後悔しながらじわじわと押し寄せる恐怖と戦いながら死を待つことが日常になってしまったのです。
つまり、われわれは理不尽な死の悼みを癒す宗教を必要とするのではなく、予期しうる人生の終焉としての死を迎えるための教養で対応できる時代に生きているのです。
この意味で、当書は、死ぬための教養を培う単なる読書ガイドという役割を超えて、形を変えた痛烈な現代に対する文明批判へと転換している気がします。
だって、46冊の本を読めば、死ぬのが怖くなくなるキョーヨーが身につくとはどこにも書かれていないではないですか!
その文明批判の基礎となる、ここで紹介される46冊の本は、著者の練達の筆によりどれも魅力的な本に思えます。そしてゴウ先生が読んだ本に関する紹介に即して判断しても著者の見立てに狂いはない気がします。現代人にとって必須の読書ガイドの一つだと断言できます。
お年を召した方ばかりでなく、若いからこそ考えるべき死の重みを、この本を通じて思い巡らすのは悪くないことだと信じます。一見軽妙に流れる筆のタッチを楽しみつつもだまされず、著者の思いを汲み取りましょう。
ゴウ先生ランキング: A
読んでください。著者本人の素晴らしい本の数々との出会いにドキドキすること請け合いです。
付記:ゴウ先生が上智大学の学生だった頃(1981年-1988年)、我が母校ではアルフォンス・デーケン神父が「死の哲学」という講座を持っていました。ゴウ先生も受講したことがあります。すごい人気でした。いまはどうなのでしょう。そうした難解な講座に人気が集まっているのでしょうか。キョーヨーを超えて、いまこそ「死」と真剣に向き合わなければならない時代のような気がするのですが・・・。
死という事を考えずに生きてしまっているので、逆に生という事も真剣に捉える事をせずに、漠然と過ごしてしまっていると感じました。
この本を読ませて頂き、死の重みを考えたいと思います。
ありませんでした。本を注文します。