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松平監督の遺訓は、「離煙」と見た

2012年01月06日 08時35分30秒 | 離煙ニュース: 国内編

元全日本男子バレー監督松平康隆さんが、お亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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五輪バレー「金」監督、松平康隆さん死去(サンケイスポーツ) - goo ニュース

2012年1月6日(金)08:00

 バレーボール男子日本代表監督として1972年ミュンヘン五輪で金メダルを獲得した松平康隆氏が昨年12月31日午後0時21分、肺気腫のため東 京都内の病院で死去していたことが5日、分かった。81歳だった。葬儀は近親者のみで済ませた。後日お別れの会を開く。松平氏は日本バレーボール協会会長、国際バレーボール連盟副会長などを歴任。独自のコンビバレーで世界を席巻する一方、国内バレーブームの生みの親となり、内外で競技普及に尽力した。

 巨星が逝った。1メートル62の小さな体に無限の情熱を秘め、日本バレーボール界を支え続けた松平氏がロンドン五輪前年の大みそか、肺気腫のため81歳でこの世を去った。

 「バレーボール一筋に人生を終えられて非常に幸せでした。自分の人生でやりたいことは全部できましたし、思い残すことは何もない人生でした」

 故人が創設に尽力した春高バレー開幕の5日、日本バレーボール協会が発表した故人最期の言葉。そこには“バレーの父”としての気概にあふれていた。19世紀末に米国で生まれた競技を国民的スポーツに押し上げた最大の功労者だった。

 慶大、日本鋼管で9人制のバックセンターとして活躍。攻撃に参加しない後衛からプレーや戦術を見守ったことが、指導者として大成する礎となったと も言われる。日本鋼管では選手兼任監督も務め、1961年にソ連留学。6人制バレーを学んだ後、帰国して本格的に指導者の道を歩んだ。

 大きな転機は64年東京五輪の3年前。男女初の欧州遠征で22連勝の女子とは対照的に、自身がコーチを務めた男子は22連敗。女子の「東洋の魔 女」に対し、「世界のクズ」と呼ばれた。東京五輪は銅メダル。金メダルの女子が祝勝会を開く中、男子は連絡ミスで招かれもしなかった。

 屈辱をバネに65年に男子監督に就任すると、「世界制覇8年計画」を公言し、68年メキシコ五輪で銀。「期待されることで強くなる」と、テレビア ニメ「ミュンヘンへの道」を企画、監修するなど男子バレー人気の高揚にも腐心した。そして、目標の72年ミュンヘン五輪ではセンター南将之、エース大古誠 司、セッター猫田勝敏らを擁して頂点に立った。

 2メートル近い選手を50メートル近く倒立歩行させたり、バック転させるなどのユニークな練習に加え、一人時間差、クイック攻撃など編み出した戦法は近代バレーを革新。それらが大きく花開いた瞬間だった。変幻自在のコンビバレーは世界から「松平サーカス」と恐れられた。

 座右の銘は全盲の母、ミツさんの口癖『負けてたまるか』。79年から日本協会の専務理事を務めた後、89年に会長就任。国際連盟のルーベン・アコスタ会長(当時)と密接な関係を築き、ワールドカップ(W杯)の日本恒久開催などバレー人気興隆に寄与した。

 教え子の一人、大古氏は「メキシコ五輪前の合宿で右足じん帯損傷の僕に“絶対にお前を連れていく”と言ってくれた。簡単に選手を入れ替えない人。 松平一家の絆がありました」と述懐する。会長時代はパイプを愛飲していた松平氏だが、肺気腫と闘う最近は酸素吸入器を着用。猫田さん、南さん、中村祐造さ んとミュンヘン組に先立たれた際は「寂しいねえ。監督だけ生きてる」とつぶやいたと言い、つえをつくようになっても会場で応援し続けた。

 病床では今春のロンドン五輪最終予選(東京体育館)を気にかけていたという。バレーに人生をささげた60有余年。天国の教え子らとともに、これからも一番の声援を送り続けてくれるだろう。

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この記事で分かるように、死因を「肺気腫」と書いてあるところに松平さん個人の遺志が感じられます。というのも、肺気腫に罹っていても、直接の死因は「呼吸不全」とか「多臓器不全」であったと思うのですが、それをあえてたばこ病である肺気腫と発表されているからです。

実際、6年前の読売新聞の記事で次のような発言をなさって、離煙の重要性を強調なさっています。

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 自宅のある東京・表参道付近は、若者が多く、たばこを吸う姿が目に留まる。

 「バカだなぁ。早死にするぞ」。言葉がのど元まで出る。

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詳しくは2005年09月21日に書いた当ブログ「タバコになんか負けてたまるか」をお読みいただきたいのですが、松平監督は喫煙習慣を持っていたことをひどく反省して、肺気腫だと分かってからはすっぱりたばこをやめられたそうです。そして、積極的に治療に取り組まれ、発症後11年も生きておられました。やはり金メダル監督は、行動力が違います。

新年にあたり、離煙を決意した方が多いと思います。とてもよいことです。小生もやめて8年、やめたことを後悔したことは一度もありません。ぜひ、松平監督を見習って、たばこと縁を切ることを強くオススメします。

百害あって一利なし。たばこのない離煙生活は、最高です。

改めて、合掌。


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