わが愛する原節子さんが、9月5日に亡くなっておられました。
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原節子さん死去…「青い山脈」、伝説の女優
読売新聞 2015年11月26日 01時33分
清純派の美人スターとして戦前戦後を通じて活躍した伝説の女優、原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=あいだ・まさえ)さんが、9月5日に肺炎のため死去していたことが、25日分かった。
95歳だった。近親者で密葬を行った。同居していたおいによると、原さんは8月中旬に入院するまでは、自宅の庭を散歩するなど元気だった。本人の希望で亡くなったことは伏せていたという。
横浜高等女学校を中退し、1935年、義兄・熊谷久虎監督の縁で日活多摩川撮影所に入社。15歳で「ためらふ勿なかれ若人よ」でデビューした。「緑の地平線」「河内山宗俊」などを経て、37年、日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜てきされ、大きな話題を呼んだ。
戦後には、黒沢明監督「わが青春に悔なし」、吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」、今井正監督「青い山脈」など名匠の作品に出演、日本人離れした彫りの深い美貌とはつらつとした明るさで人気女優の地位を確立した。特に小津安二郎監督「晩春」「東京物語」、成瀬巳喜男監督「めし」「山の音」などの名作で、知的で優しい成熟した女性像を演じ、名実ともにトップ女優になった。
原節子さん死去95歳 伝説の女優「東京物語」「晩春」
朝日新聞 2015年11月26日02時25分
戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍し、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。95歳だった。葬儀は近親者で営んだ。
同じ敷地に暮らしていた親族によると、原さんは8月中旬、神奈川県内の病院に入院。亡くなった日は、5人ほどの親族に見守られながら息を引き取った。それまでは「大きな病気もなく過ごしていた」といい、亡くなった時点での公表を控えたのは「あまり騒がないでほしい」との遺志を尊重したためという。
横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社。「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。
山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、36年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。
東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の46年、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、47年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。
以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯!」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。49年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期が遅れた娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。
「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに出演した。54年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。
その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、62年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。
その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。
原節子さん、内なる美追求 孤高の生涯半世紀
朝日新聞 2015年11月25日23時49分
9月に亡くなっていたことが分かった原節子さんは昭和30年代、42歳で突如スクリーンから消えた。マスコミとの接触も絶った伝説の女優は、半世紀にわたって沈黙を貫き世を去った。
「独逸(ドイツ)へ行く大和(にっぽん)撫子(むすめ)」
「日本の名花から/愈々(いよいよ)世界の恋人」
1937年、日独合作映画「新しき土」公開のために原節子さんがベルリンに赴くことが決まると、新聞各紙にはこうした大きな活字が躍った。外国でも見劣りしない目鼻立ちのくっきりした美貌(びぼう)で長身の女優が生まれたことを、当時の日本人は手放しで喜んだ。
だが、人気を誇りながらも、20代のうちは演技では芳しい評価を得られなかった。
「映画はクローズアップ使うでしょう、そういう時、演技ばかりで押し切らず、高い程度の人間ってのかな、それを出したいんです」(30歳当時の発言)
「わたし昔から大根々々といわれつけているので悪口いわれても平気になったけれど、映画評なんかもっと指導的であってほしいの」(31歳)
こうした真剣な発言が、インタビュー記事の中では、ともすれば揶揄(やゆ)的にとり上げられた。
「路傍の石」「ふんどし医者」で夫役を演じた生前の森繁久弥さんによると、猥談(わいだん)にも乗ってくる開放的な女性だったという。著書の中で「そんな話をする奴(やつ)も周りにいないのだろう」と同情している。
「若いときは、どうして結婚しないんだといわれたり、気持ちが不安定で、早く年をとって安定した中年の美しさを身につけたいなあと思ってました。人形的な美しさでなく、内面のうかがえる美しさ、好もしい顔、感じのいい顔……」(40歳)
恋人役も母親役もこなせる女優として期待されながら、42歳で原さんはスクリーンから消える。
マスコミとの接触を絶ち、一切の取り次ぎは同じ敷地に住むおい夫婦が引き受けた。63年、小津安二郎監督が死去した際、通夜に訪れたのが公の場に姿を見せた最後。玄関に立ち尽くし、泣いていたという。時折写真週刊誌やテレビのワイドショーが私生活を盗み撮りしたが、黙殺した。
94年、原さんの名前が久しぶりにマスコミをにぎわせた。東京都狛江市の宅地約2900平方メートルを売却したことから、高額納税者番付の75位に顔を出したのだ。おいの妻が伝えた本人のコメントは「そっとしておいてほしい」(73歳)。
「小津監督の命日、一輪のバラを墓前に供え続けた」「地元の公民館が小津映画を上映したとき、ほおかむりをした原さんが見に来た」といううわさも流れた。肯定も否定もしないまま、原さんは世を去った。
【原節子さん死去】昭和の大女優、謎の引退で伝説に
産経新聞 2015.11.25 23:30
9月に亡くなっていたことが分かった原節子さんは、100本を超える作品に出演し、日本を代表する映画女優として活躍した。引退後は50年以上にわたって公の場から遠ざかって静かに暮らし、若いころのイメージを国民の記憶にとどめたまま世を去った。まさに伝説の大女優らしい生涯だった。
大正9年、2男5女の末っ子として生まれた原さんは、義兄で映画監督だった熊谷久虎氏の勧めで、高等女学校を中退して日活入り。昭和10年、15歳のときに「ためらふ勿(なか)れ若人よ」で銀幕デビューを果たした。
若いころは日本人離れした彫りの深い美貌に演技が追いついていない「大根役者」とのレッテルも張られたが、昭和24年に公開された小津安二郎監督の「晩春」や今井正監督の「青い山脈」の演技で高い評価を得た。自身、ある対談で「私は終戦の年まで女優というものを職業として、それほど意識していなかったんです。素人と同じだったわけですね。ですから、カメラの前で芝居をするっていうのは、とても恥ずかしくって…」と振り返っている。
「晩春」以降、小津監督の映画には欠かせない女優となり、「麦秋」「東京物語」などに出演した。小津監督は「原さんほど役柄に対する理解が深く、知性や教養があらわれる演技ができる人はいない。彼女が“大根”のような演技をしたとすれば、それは監督の方が悪いのだ」との言葉を残している。
映画出演は37年の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」が最後で、翌年に死去した小津監督の通夜に訪れて以降、公の場には姿を現していない。引退宣言などもなかったため、引退の理由は定かではなく、諸説あった。その後は取材要請があっても「私はもうおばあちゃんですから」と断り続け、鎌倉で親族と悠々自適の暮らしを送っていた。平成5年に現役時代に住んでいた東京都狛江市の自宅跡地を売却した際、長者番付に名前が載って話題を呼んだこともあった。
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貧乏英語塾長は、原節子ファンです。紀子三部作『晩春』(1949)『麦秋』(1951)『東京物語』(1953)でその魅力にしびれてしまった遅れてきたファンとして、必死に出演作を観続けております。先日も、阿佐ヶ谷ラピュタで、原さんが出る『娘と私』(1962)を観てきたばかりです(『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』の一本前の作品)。
1920年6月17日生まれの原さんです。報道されないだけでとっくにお亡くなりになっているのではないかと拝察していたら、その嫌な予感が当たってしまいました。
原さんは、生前からお墓を用意されていて、そのお墓も見に行ったことがあります。四十九日が過ぎましたから、頃合いを見て、お墓参りに出かけようかと思います。原さんを伝説の女優にした小津安二郎監督の命日が12月12日に迫っていますし。
これをきっかけに、めったに上映されない原節子出演作品が上映されるはずです。原節子ファンとしては、出演作101本のうちどれだけフィルムが残っているかわかりませんが、全部観るつもりでがんばります。東宝・松竹・映画館経営のみなさん、追悼特集上映をよろしくお願いします。
原節子さんのご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。
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