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高橋真梨子、人生の贈りもの 第2回

2018年07月25日 05時24分14秒 | 音楽

真梨子さんの幼少時代の苦労です。泣いてしまいます。

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(語る 人生の贈りもの)高橋真梨子:2 3歳、サックス奏者の父が病に
朝日新聞 2018年7月24日05時00分

つかまり立ち。1950年ごろに撮影=本人提供

 ■歌手・高橋真梨子

 私は1949年、広島の生まれです。父も母も被爆しているので、被爆2世ですね。

 今まで何も影響がなかったからもうないだろうと思っていますけど、白血球がかなり少ないので免疫力はあまりないかもしれません。

 ジャズのサックス奏者だった父は、私が生まれてまもなく、博多へ行ってジャズバンドに参加しました。すごく評判がよくて、母と私も、博多へ。私が1歳半になったころだったんじゃないかな。

 でも、父が元気だったときのことは、実はあまり覚えていないんです。

 《父親は足の親指の切り傷が半年たっても治らず、病院で脱疽(だっそ)と診断された。血流の悪化で組織が壊死(えし)し、黒く変色する難病。彼女が3歳になった頃のことだ》

 最初の数年、父は博多の病院で治療を受けました。大部屋に入り、母も付き添いで泊まって、互いの腕をひもでつないで寝ていたそうです。夜中に具合が悪くなると父がひもを引っ張り、母が起きて看病する。そんな毎日だったと聞きました。

 私たち親子はすごく貧しくて、小さいアパートに暮らしていました。父が入院した当初、私はまだ幼くて1人で家に置いておけなかったので、母は私を病院に連れて行って寝かせたそうです。父と同じ病室で。全然泣かなかったらしいですよ。

 記憶にある父は、いつも病気と闘っていました。

 痛みに苦しみ続け、治っては病院にかかり、治ってはかかり、という繰り返し。左足をひざから切断して、やがて右足も……。痛み止めにモルヒネを打っていました。

 あの頃、薬は高かったと思います。父が働けないので、薬代を稼ぐために、母がキャバレーのホステスとして働き始めました

 生活は苦しくなるばかり。父は、広島なら仕事があるかもしれないし、実家で治療を受けられるからと、母と私を置いて、1人で故郷に帰りました。父が一番悔しかったと思います。(聞き手・坂本真子)

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真梨子さんのお父上の病気は、原爆が原因なのではないでしょうか。

しかも、真梨子さんも、白血球数が少ないとか。心配になります。

広島・長崎に原爆を落とし、全国で無差別爆撃をして、多くの民間人を殺したアメリカが憎くてなりません。

真梨子さんのご両親を含め、多くの戦災被害者のみなさんに、 合掌。


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