祖霊社 1974年3月吉日 保々遺族会
祖霊社を示す石柱には「保々遺族会昭和四十九年三月吉日建之」とありますが、祠堂や狛犬については、建立が戦前でることが記されているものもあります。『ふるさと保々』(保々歴史を語る会編集委員会)によると、「西南の役から大東亜戦争にいたる」戦死者193名が祀られているということです。
戦災者之碑 1953年 阿倉川
殉難記念之碑 1878(明治11)年4月
明治十年の従軍で田原坂と山鹿おいて戦死した11名の名前が、裏に記されています。(伊坂村、東富田村、富田一色村、北山村、小牧村、中野村、羽津村、西福崎村、小島村)
南無阿弥陀仏 1951年2月
戦没者の碑 1951年3月 赤水遺家族一同 裏に戦死者11名(21~37歳)の名前が記されています。
南無阿弥陀仏 平尾町一同 裏に、「日露戦役」2名、「日支事変」4名、「大東亜戦争」21名の名前が記されています。 南無阿弥陀仏の碑を中心に、戦死者の墓が7基並んでいますが、かつては14基であったと推測されます。南無阿弥陀仏碑に建立年の記載はありませんが、碑と並んで建つ戦死者個人の墓の建立は昭和三十年四月と記されています。
平和塔(海蔵地区祈念碑) 1963年1月 「慰霊」の文字や石碑の意匠が、市内三ツ谷町の多度神社にある慰霊碑(1965年)と共通しています。
裏に「海蔵地区祈念碑」とあります。「昭和三十八年一月 四日市市長平田佐矩 謹書」 石柱の端が不自然に切断されているため、建立当時は長かったものが何らかの理由で折れたため、3本を並べて配置したものと推測されます。三重県遺族会のHPによると、「戦没者204柱戦災死14柱を祀る」とのことです。
日露戦役記念碑 裏に戦死者、従軍者の名前が記されていますが、劣化しており詳細は不明です。三重県遺族会のHPによると、「戦死2柱従軍者61柱を祀る」とのことです。
碑の形状、表の碑銘「日露戦役記念碑 元帥公爵大山巌書」など、市内東日野町の神明神社の日露戦役記念碑(1906・明治39年)と共通しており、同時期に建立されたものと推測されます。
平和之礎 1953年4月 裏に「大東亜戦戦没者」の163名の名前が記されています。
日露戦役紀念碑 1908(明治41)年3月 三重村有志者
裏に日露戦争の「忠死者」10名と「従軍者」83名の名前が記されています。
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