いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

調査メモ 2009年11月

2013-08-04 | 四日市市内の戦争慰霊碑(調査メモ)

 忠魂碑について説明しなければならないことになり、市内の慰霊碑を調べ始めた。予想以上に多種類の碑が残されていることを知る。

 忠魂碑は、戦時下、戦意高揚に利用されたことが知られているが、戦後は1953年以降、各地で「忠魂碑」などの慰霊碑の建設が盛んになる。市内で建立された多くの忠魂碑に混じって「平和之礎」碑が散見できる。「平和之礎」という表現は共通するものの、字体や揮毫者、建立時期はまちまちで、組織立った動きでは無さそうだ。戦争の記憶が未だ生々しかった時代、人びとは、慰霊に、どのような心を重ねたのだろうか。まずは、どのような碑が残っているのかを知るため各地をまわる。

 大型台風が去った後、晴れた日が続いたので、この機会にと市内を北へ南へと自転車で走る。国土地理院2万5千分の1地図と住宅地図を組み合わせて、碑が在りそうな場所に当たりをつける。エリア内のできるだけ多くの碑を調べようと予定を組んだが、だんだん滅入ってきた。
 
 どうしてこんなに勇ましく大きいのだろう。忠魂、英霊、殉国といった言葉で飾られた碑を見上げると、晴れた空は眩しく、刻まれた名前は遠くて読めない。

 1976年になって立てられたコミュニティセンター横の大きな忠魂碑を眺めながら、気持ちが萎え始めた頃、別の地域の寺で、「
太平洋戦争における戦死者のため 真実之利」と刻まれた小さな慰霊碑を知る。1964年仲秋、有志の手で立てられた碑には、「すきな生ふ小さき塚かも鋤きのこす」(杉菜生ふ小さき塚かも鋤のこす 田中七草)の句が添えられていた。碑の下には、虫鬼灯がやわらかな光を受けて美しい。

 ああ、こういう慰霊のかたちもあったのだと気づき、碑の調査計画を変更する。
 もっと時間をかけて、ゆっくり丁寧に回ろう。古い集落や共同墓地が、まだ昔日の姿を残しているうちに。

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調査メモ 2010年4月

2013-08-04 | 四日市市内の戦争慰霊碑(調査メモ)

 戦争慰霊碑を数ヵ所訪ねる。

 遺族会作成のリストによると「英霊碑」があるという神社の急な階段を上って行くが、慰霊碑らしきものは見当たらず、あきらめかけた時、傾斜の一番下の端に小さな碑があることに気づく。

 「おもいでのしるべ」と記された碑は、1959年建立。亡くなった58名の名前だけが刻まれていた。

 有縁の人等によって、ひっそりと建てられた碑は、「死」が賛美されることを望んではいないのだ。

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地租改正反対農民一揆で焼失した陣屋跡(中部西小学校)

2013-08-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

地租を引き下げさせた転換期の農民一揆

   地租改正反対農民一揆で焼失した陣屋跡
                 (中部西小学校)
  
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 江戸時代の四日市は、一時(享保年~享和元年の大和郡山藩領)をのぞき、天領(幕府領)でした。初代代官水谷九左衛門光勝は、1603(慶長8)年、現在の中部西小学校辺りに代官所(陣屋)を築き、ここが幕府領支配の拠点でした。

 1871(明治4)年度会県出張所、1872(明治5)年には三重県庁、その後県庁が津へ移されたことで1874(明治7)年には県支庁と呼ばれるようになりましたが、1876(明治9)年の地租改正反対農民一揆の際に焼失しました。

 この時、唯一残ったクスノキは、1945年の空襲で焼失し、現在小学校の校庭にあるクスノキは、戦後植えられたものといわれています。

 明治政府の地租改正では石代納米価が高く設定されました。米価の下落などで打撃を受けた地域の中でも特に負担増となるところで、県の対応に不満が爆発し、明治政府への抗議となって人びとは県境をめざしました。

 0~50%も減租となる地域が多かった平野部に比べて、山間部では50%以上の増租となるところもあったのです。四日市では激しい放火・打ちこわしを伴い、攻撃対象は官名義や官と関わりのある建物や書類でした。

 住民の多くが参加したこの一揆では、絞首刑一人を含む五万人が処罰されました。四日市(三重・朝明郡内)で、呵責(かせき)以上の処分を受けた者は、7,840人に上ったと言われています。

 三重県を中心に愛知・岐阜・奈良の各県へも波及した三重県農民一揆は、明治期では最大規模のものです。茨城県や和歌山県の一揆とともに、政府に大きな衝撃を与え、3%であった地租は、2.5%に引き下げられました。

(2009年5月記)

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諏訪公園 初めてのメーデー

2013-08-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

労働者の権利としての団結      

   諏訪公園 初めてのメーデー

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 1906(明治39)年、日露戦争の記念として諏訪神社内に公園が造られ保光苑と呼ばれました。

 その後1908(明治41)年市営公園となり、1915(大正4)年、大正天皇即位式の記念事業として、図書館建築を含む拡張整備がおこなわれ、1916年に諏訪公園と改称されました。

 図書館は、1929(昭和4)年に、昭和天皇即位式の記念事業として熊澤一衛が建物を寄付、現在も交流館、児童館として利用されています。

 古くから多くの人びとに利用された諏訪公園ですが、四日市で最初のメーデーも開催されました。1931年のことです。

 伊勢新聞によると、5月1日午後1時、諏訪公園に集合した参加者は20名でした。「親方制度の撤廃」「労働者農民団結せよ」と書かれた旗を立てて、諏訪新道から関西橋・昌栄橋・築港へ出て北進、寺町通り東紡工場前・大正橋・午越八間通り・西河原町・東海道に出て左折し諏訪公園へと戻るコースをデモ行進しました。
 
 四日市では、前年の1930年、萬古焼の窯元13軒と生地製造業者(職工)70余人が、生地代の値下げをめぐって対立し、一斉休業、不売運動などを展開しています。1931年2月の全国大衆党四日市支部の発会式には、萬古焼の職工が多く参加していました。

 1931年は、国内の労働組合組織率が戦前の最高を数え、労働争議が激発した年でした。また、数次にわたった労働組合法案の上程は、この年の廃案で成立せず、労働組合法の成立・公布は、敗戦後の1945年12月のことでした。

(2009年5月記)


■メーデー略年表 
1886年 5月1日、合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟 AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求の統一ストライキ
1890年 AFLが呼びかけた8時間労働制実現のためのゼネストへの共同行動に応えて、ヨーロッパ各地やアメリカなどで第1回国際メーデー開催

【日本】
1905年 平民社でメーデー茶話会
1917年 メーデー記念集会
1920年 第1回メーデー 上野公園 1万人
1921年 第2回メーデー 東京、大阪、神戸、足尾など
1931年 四日市で初めてのメーデー開催
1936年 メーデー禁止
1946年 メーデー復活 第17回 200万人

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四日市公害犠牲者慰霊碑(四日市市北大谷霊園)

2013-08-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

四日市の空の下で 公害の教訓は活きているか
   
   四日市公害犠牲者慰霊碑(四日市市北大谷霊園)

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 大気汚染をめぐり企業の賠償責任を初めて認めた四日市公害訴訟の判決(1972年7月24日)から5年後の1977年、大谷斎場の敷地内に四日市公害犠牲者慰霊碑が建立され、10月23日に慰霊祭がおこなわれました。

 その後、斎場の整備により、1990年、霊園内の現在地に移転されました。

 1977年建立当時、すでに亡くなられた公害認定患者の方は184名でした。慰霊祭はその後も続けられています。

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(2011年9月24日、1年間の物故者19名、合併前の楠町67名、認定制度実施前の7名を含む985名の冥福を祈った。)

■四日市公害
1959年
  4月 第1コンビナート稼動
1960年
  異臭魚の範囲が、四日市の沖合4キロまで広がる 
  磯津地区でぜんそく症状を訴える人が増加する
  3月 東京築地中央卸売市場「伊勢湾の魚は油臭いので、厳重な検査が必要」と通告
  4月 塩浜地区連合自治会、ばい煙、騒音、悪臭等公害について市に陳情
  8月 四日市市公害防止対策委員会発足
1963年
  この頃より住民運動が活発化する
  黒川調査団勧告
  7月 三重県に公害対策室設置
  8月 四日市市衛生課に公害対策係設置
 11月  第2コンビナート本格稼動
1964年 
  4月 公害患者が肺気腫で亡くなり、初めての犠牲者となる
  四日市地区大気汚染特別調査会答申 四日市はばい煙規正法の指定地域となる。また、 
  この報告で指摘された空気清浄室が、塩浜病院、市立四日市病院、築港病院に設置される
1966年
  7月 地域住民が「死ねば薬もいらず楽になる」との遺書を残して自殺
1967年 
  2月 四日市市議会、第3コンビナートの誘致決定
  6月 公害患者が「ああ、今日も空気が悪い」という遺書を残して自殺
      四日市公害対策協議会が「公害犠牲者追悼・抗議の市民集会」を開催
  7月 三重県公害防止条例公布 (四日市公害の原因である亜硫酸ガスの規制は含まれず)
  8月  公害対策基本法公布、施行
  9月 磯津地区の患者9人が6社に対して津地裁四日市支部に提訴
     (四日市公害訴訟始まる)
 10月 塩浜中学校3年生、発作による呼吸器困難のため病院で亡くなる
1968年
  6月 大気汚染防止法公布
  9月 四日市地域公害防止対策協議会発足
  10月 訴訟提起1年後、四日市公害認定患者の会が発足
1971年
  6月 悪臭防止法公布
 10月 四日市市が、大気汚染防止法に基づく政令市になる
1972年
  3月 第3コンビナート本格稼動
  7月 四日市公害損害賠償裁判判決 
     石原産業が代表して9,500万円の賠償金を支払
     被告6社が控訴断念

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碑の前からコンビナートが見えます。

(2009年5月記 2013年8月加筆)

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移設された諏訪公園の市民壇(南部丘陵公園北部ゾーン)

2013-08-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

非日常の舞台を見つめて 

   移設された諏訪公園の市民壇 
        (南部丘陵公園北部ゾーン)

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 市の中心部の公園として親しまれている諏訪公園は、日露戦争の記念として1906(明治39)年諏訪神社内に造られた保光苑が始まりです。

 その後1908(明治41)年市営公園となり、1915(大正4)年、大正天皇即位式の記念事業として図書館建築を含む拡張整備がおこなわれ、1916年に諏訪公園と改称されました。
 
 諏訪公園の中でも、特に思い出の中で語られることが多いもののひとつに、市民壇があります。野外舞台であった市民壇は、1934(昭和9)年3月、事業家村山清八氏の寄贈により建立されました。

 太平洋戦争中は、「南京陥落戦勝祝賀会」(1937)、「皇紀2600年記念式典」(1940)など、もっぱら戦意高揚のための行事に使われました。

 戦後は近くの幼稚園の運動会、野外映画館、子供の写生会など幅広く活用され、また、メーデーや、四日市公害犠牲者追悼と抗議の市民集会も開催されました。

 市民の非日常の舞台を見つめてきた市民壇は、1990年3月、南部丘陵公園北部ゾーンに移築されました。現在の市民壇の裏には「四日市祭三相」が描かれています。

(2009年5月記)

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