▼【訃報】筒美京平、80歳
*筒美氏は作曲家を裏方とし、メディアに登場することを極端に遠ざけていた方なので
今回は氏のポリシーを尊重し、敢えて写真は掲載していません。
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大御所の歌手や俳優が亡くなるたびに
「日本を代表する」「またひとつ昭和が」といったフレーズが使われるが
私にとって筒美京平は紛れもなく日本を代表する作曲家であり
「またひとつ昭和が終わった」と実感する偉人のひとりである。
物心ついた頃から最近まで、氏の紡いだ楽曲は私の生活に至るところに寄り添っている。
例えが的確かはやや心配があるが、耳の母乳といってもいい。
それぐらい、DNAに根付いている。
懐メロになった曲、今なお瑞々しさを失わない曲、演歌・歌謡曲・ポップスの枠組みを
軽やかに飛び越え縦横無尽に繰り出される筒美氏のメロディは
非常にわかりやすいものからひねりにひねったものまで多岐に渡っていて
その傾向を把握することは困難だ。
5人から成る作曲家グループの総称が「筒美京平」だったとしても、私はなんの不思議もない。
それではここで、筒美氏の作曲したヒット曲から極々一部をチョイスして紹介する。
実際にはこの10倍ぐらいのヒット曲があり、名曲で括るならそれこそ枚挙にいとまがない。
アルバム全曲を担当することも多く、シングルのみならずアルバムの名盤も含めると
2時間どころかひと晩でも語れる気がする。
筒美京平の代表的なヒット曲*( )内は作詞家
1968年「ブルー・ライト・ヨコハマ / いしだあゆみ」(橋本淳)
1969年「サザエさん / 宇野ゆう子(林春生)
1971年「また逢う日まで / 尾崎紀世彦」(阿久悠)
1971年「さらば恋人 / 堺正章」(北山修)
1971年「17才 / 南沙織」(有馬三恵子)
1971年「真夏の出来事 / 平山三紀」(橋本淳)
1971年「お世話になりました / 井上順」(山上路夫)
1973年「赤い風船 / 浅田美代子」(安井かずみ)
1973年「わたしの彼は左きき / 麻丘めぐみ」(千家和也)
1973年「色づく街 / 南沙織」(有馬三恵子)
1973年「花とみつばち / 郷ひろみ」(岩谷時子)
1974年「よろしく哀愁 / 郷ひろみ」(安井かずみ)
1975年「ロマンス / 岩崎宏美」(阿久悠)
1975年「木綿のハンカチーフ / 太田裕美」(松本隆)
1976年「セクシー・バス・ストップ / 浅野ゆう子」(橋本淳)
1978年「飛んでイスタンブール / 庄野真代」(ちあき哲也)
1978年「シンデレラ・ハネムーン / 岩崎宏美」( 阿久悠)
1978年「たそがれマイ・ラブ / 大橋純子」(阿久悠)
1979年「魅せられて / ジュディ・オング」(阿木耀子)
1979年「セクシャルバイオレットNo.1 / 桑名正博」(松本隆)
歌謡曲全盛期である70年代はこのあたりだろうか。
ミリオンヒットの「ブルーライトヨコハマ」は今でも映画やCMに使用されたりしている。
「サザエさん」「また逢う日まで」「17才」「魅せられて」などは
世代を問わず誰でも聞けば知っている曲ではないかと思う。
太田裕美の「木綿のハンカチーフ」は椎名林檎、宮本浩次、いきものがかり、草野マサムネ、
今年大ブレイクした藤井風(20才の頃にYouTubeで披露したもの)もカバーする
昭和ポップスの名曲であり、作詞家・松本隆とのタッグで生み出された初のヒット曲。
はっぴいえんどから作詞家に転身してからの松本氏は詩先(詩を先に書いて、それに曲をあてる)で
貫いてきたために、大御所の筒美氏との初タッグでも無理を承知で詩先を要求したところ
いともあっさり「いいよ」と返事が来たため、少し意地悪をして言葉の数の多い歌詞を書いた。
ところが筒美氏から帰ってきたメロディが文句のつけようもなく素晴らしく
このことに感服した松本氏は以降は筒美氏に全幅の信頼を置くようになったという。
ちなみに、ユーミンこと松任谷由実だけは松本氏の詩先を断っている。
理由は「だってあなたなら曲先でも書けるでしょ?」だったと何かのインタビューで読んだ。
そのあたりのことは松本氏の古いツイートで軽く触れられている。
詞先について。はっぴいえんど全曲詞先。松本-筒美作品のシングルA面の過半数が詞先。松本-細野作品の全曲詞先。松本-拓郎作品の全曲が詞先。大滝詠一は自分のソロのみ曲先。他人への提供曲は全曲詞先。ユーミンは「秘密の花園」だけが詞先であとは曲先。
— 松本 隆 (@takashi_mtmt) September 23, 2010
「秘密の花園」がユーミンとのタッグで唯一曲先だったのには理由がある。
もともとは別の作家に楽曲依頼をしていたものの、これがボツになり急遽ユーミンにお鉢が回ってきたのだ。
YouTubeには、ボツになったバージョンの「秘密の花園」の音源もある。
一部では財津和夫ではないかと噂されたが真相は不明。
ただこのバージョンを聞く限り、やはりユーミンで正解だったと思う。
1980年「スニーカーぶる〜す / 近藤真彦」(松本隆)
1981年「ギンギラギンにさりげなく / 近藤真彦」(伊達歩)
1981年「センチメンタル・ジャーニー / 松本伊代」(湯川れい子)
1982年「君に薔薇薔薇…という感じ / 田原俊彦」(三浦徳子)
1982年「ドラマティック・レイン / 稲垣潤一」(秋元康)
1983年「美貌の都 / 郷ひろみ」(中島みゆき)
1983年「夏色のナンシー / 早見優」(三浦徳子)
1983年「エスカレーション / 河合奈保子」(売野雅勇)
1983年「夏のクラクション / 稲垣潤一」(売野雅勇)
1984年「ト・レ・モ・ロ / 柏原芳恵」(松本隆)
1984年「誘惑光線・クラッ! / 早見優」(松本隆)
1984年「迷宮のアンドローラ / 小泉今日子」(松本隆)
1984年「風のノー・リプライ / 鮎川麻弥」(売野雅勇)
1984年「ヤマトナデシコ七変化 / 小泉今日子」(康珍化)
1985年「Romanticが止まらない / C-C-B」(松本隆)
1985年「卒業 / 斉藤由貴」(松本隆)
1985年「殺意のバカンス / 本田美奈子」(売野雅勇)
1985年「「C」/ 中山美穂」(松本隆)
1985年「あなたを・もっと・知りたくて / 薬師丸ひろ子」(松本隆)
1985年「夏ざかりほの字組 / Toshi&Naoko」(阿久悠)
1985年「Temptation(誘惑)/ 本田美奈子」(松本隆)
1985年「情熱 / 斉藤由貴」(松本隆)
1985年「なんてったってアイドル / 小泉今日子」、(秋元康)
1985年「仮面舞踏会 / 少年隊」(ちあき哲也)
1986年「1986年のマリリン / 本田美奈子」(秋元康)
1986年「ツイてるねノッてるね / 中山美穂」(松本隆)
1986年「WAKU WAKUさせて / 中山美穂」(松本隆)
1987年「Oneway Generation / 本田美奈子」(秋元康)
1987年「水のルージュ / 小泉今日子」(松本隆)
1987年「teardrop / 後藤久美子」(来生えつこ)
1987年「「派手!!!」/ 中山美穂」(松本隆)
1987年「さよならの果実たち / 荻野目洋子」(売野雅勇)
1987年「君だけに / 少年隊」(康珍化)
1987年「野性の風 / 今井美樹」(川村真澄)
1987年「Joy / 石井明美」(ちあき哲也)
1987年「ABC / 少年隊」(松本隆)
1988年「抱きしめてTONIGHT / 田原俊彦」(森浩美)
1989年「17才(南沙織カバー)/ 森高千里」(有馬三恵子)
1989年「肩幅の未来 / 長山洋子」(中島みゆき)
80年代は、松本隆・筒美京平コンビがアイドルソングを大量に生み出し歌謡界を席巻。
ベストテンヒットが少なく伸び悩むアイドルや
デビュー曲で成功を収めたい芸能事務所などは
「筒美先生に頼めばヒットが確実」と神のように崇めて日参したと言われていた。
実際、近藤真彦、松本伊代、斉藤由貴、中山美穂、本田美奈子らはデビュー曲から筒美氏で、
ベスト10に届かなかった早見優は「夏色のナンシー」で一気にトップアイドル入りを果たした。
後藤久美子は歌もデビューは筒美氏だが、本人が歌が嫌いだとのことで
セカンドシングルはユーミンに発注したにも関わらずユーミンが断っている。
「怒ったとかではなくて、嫌いなものを無理やり歌わせなくてもねえ」とラジオで語っていた。
結局、セカンドはアルフィーの高見沢の作曲で落ち着いた。
一方で、中島みゆきの歌詞に曲をつけたり、稲垣潤一に提供するなど少しずつ
アイドルとは違う路線にも活躍の場を広げていた。
1990年「色は匂へど / ちあきなおみ」(伊集院静)
1992年「心の鏡 / SMAP」(福島優子)
1993年「兆しのシーズン(ジェラシー・ジェラシーのカップリング)/ 中島みゆき」(中島みゆき)
1993年「カナディアン アコーデオン / 井上陽水」(井上陽水)
1994年「人魚 / Nokko」(Rokko)
1994年「TENCAを取ろう! -内田の野望- / 内田有紀」(広瀬香美)
1995年「強い気持ち・強い愛 / 小沢健二」(小沢健二)
1995年「タイムマシーン / 藤井フミヤ」(藤井フミヤ)
1995年「泣かないぞェ / 鈴木蘭々」(鈴木蘭々)
1998年「For me / DOUBLE」(SACHIKO)
1999年「やめないで,PURE / Kinki Kids」(伊達歩)
90年代に入ると、新規の作曲数は減るものの、タッグを組む相手が一気に様変わりする。
ちあきなおみには石井明美の「Joy」などに近い歌謡ポップスを提供し、
中島みゆきや井上陽水といった日本を代表するシンガーソングライターにも楽曲を提供、
他にもNokkoの「人魚」、小沢健二の「強い気持ち・強い愛」など
ニューミュージック界隈への提供が行われ、その都度大きな話題となった。
同時にこの頃から昭和歌謡が再度脚光を浴び始め、
70・80年代に発表された筒美氏の楽曲をリメイク・カバーする動きが加速していった。
2001年「絶望グッドバイ / 藤井隆」(松本隆)
2003年「AMBITIOUS JAPAN! / TOKIO」(なかにし礼)
2006年「恋のダウンロード / 仲間由紀恵 with ダウンローズ」(松尾潔)
2006年「人魚(Nokkoのカバー)/ 安室奈美恵」(Nokko)
2008年「綺麗ア・ラ・モード / 中川翔子」(松本隆)
2000年代に入り、「AMBITIOUS JAPAN!」でチャート1位を獲得する一方で
松本隆・筒美京平のコンビの大ファンを公言している藤井隆や中川翔子に楽曲を提供。
ニューミュージック界への提供も引き続き行われ、石井竜也、MISIA、鈴木雅之、及川光博らに書いている。
仲間由紀恵がauの看板を務めていた頃の「恋のダウンロード」や安室奈美恵の「人魚」のカバーも話題となった。
藤井隆に関しては、アルバム「ロミオ道行」で松本隆の全面プロデュースを実現し
これが隠れた名盤になっている。
が、世間的に藤井のキャラクターやデビュー曲「ナンダカンダ」のイメージが強すぎて
あまりヒットしなかった。その悔いもあってか、藤井は本作以降音楽制作への意欲をさらに高め
現在まで良質な作品を送り出し続けている。
筒美氏が亡くなったのは大きな損失だが、産み落とされた曲は永遠に愛され続ける。
一報を聞いた時は悲しさのあまり少し落ち込んでしまっていたのだが
思い直して、ここでは素晴らしい足跡を少しでも知っていただきたく
楽曲についての思い出語りで書かせていただいた。
Dr.DRAGONあたりについても書きたかったのだが、追悼なのか何なのかわからなくなるので割愛。
たくさんの名曲を本当にありがとうございました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。