ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

ヘロシです。~蚊取り線香

2021-10-10 09:04:18 | ジョーク

  ヘロシです。

    ~蚊取り線香

ヘロシです。

平成って何年ありましたっけ。

ヘロシです。

虫の音と耳鳴りの区別ができません。

ヘロシです。

天高く馬肥ゆる秋。

秋らしくない秋なのに

肥ゆる人。

ヘロシです。

蚊取り線香の火が

すぐに消えてしまいます。

ヘロシです。ヘロシです。ヘロシです。

  (終)

 


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聞き違い ~牛タン

2021-10-09 17:40:23 | ジョーク

   聞き違い

     ~牛タン

伝家の宝刀 殿下の放蕩

絨毯爆撃 牛タン爆食い

水をください 未熟はダサい

廊下を走らない 老化は知らない

(終)


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笑うしかない友       ~おかしなお菓子の家

2021-10-08 09:52:36 | ジョーク

   笑うしかない友

      ~おかしなお菓子の家

どこにいるの。

ここ。

どこ。

ここ。ここ。

どうして竈なんか…… 

どうしてと言われましても。

苦しくないの? 

苦しいけど。

でも、隠れてるわけ? 

さあ。

隠れてるのね。

そうとも言える、君が聞きたいように答えるとすればね。

どうして隠れてるの。

どうしてと言われましても。

出たくないの? 

出たくなくはありません。

どうして出ない……  聞いても無駄ね。

無駄と承知で聞いてみたらどうですか。

どうして出ないんですか。

出たくなるためだよ。

今は出たくないってこと? 

そうとも言える、君が聞きたいように答えるとすればね。

本当は出られないのね? 

そうとばかりは言えない。

何なのよ、もう。出てよ、そこにいられたら邪魔なの。

命令? 

そうだよ。命令。

だったら出られない。

命令されるのが嫌いなんだ。この天邪鬼め。

そうとも言える、君が聞きたいように答えるとすればね。

じゃあ、いい。点火するぞ。

なるほど、そういう魂胆だったのか、グレーテル。

私はグレーテルじゃない。

やっぱり魔女か。

出る気になった? 

まあね。

これでやっとお菓子が焼けるぞ。

その前に、君もちょっと入ってみないかい。

なるほど、そういう魂胆だったのか、ヘンゼル? 

私はヘンゼルじゃない。

(終)

 


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夏目漱石を読むという虚栄 5250

2021-10-07 18:24:27 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5250 「ピチーズ アキン ツー ラッヴ」

5251 『オルノーコ』

 

広田らの「小集」(『三四郎』四)は、愛に関する無知を隠蔽するために親しむらしい。

 

<「その脚本の中に有名な句がある。Pity(ピチ)‘(ー)s(ズ) akin(アキン) to(ツー) love(ラッヴ)という句だが……」

(夏目漱石『三四郎』四)>

 

広田の発言。「そ」は「サザーンという人」(『三四郎』四)だ。「脚本」の題は『オルノーコ』という。広田は「有名な句」を翻訳できない。与次郎は、この「句」を「可哀想だた惚(ほ)れたって事よ」(『三四郎』四)と訳す。広田は「不可ん、不可ん、下劣の極(きょく)だ」(『三四郎』四)と評する。ところが、野々宮は、与次郎訳を「なるほど旨(うま)い訳だ」(『三四郎』四)と評する。なお、おかしなことに、三四郎は、これを「pity’s(ピチーズ) love(ラッヴ)」(『三四郎』六)と間違って記憶する。わけがわからない。

安達祐美の名台詞、「同情するなら金をくれ」(『家なき子』日本テレビ)ではどうか。

 

<「あの女は自分の金があるのかい」

(夏目漱石『三四郎』八)>

 

「自分の金がある」の隠蔽された意味は、〈性的に自立している〉だ。

この「有名な句」の和訳は「《ことわざ》かわいそうとは惚れたの始まり」(『ランダムハウス英和大辞典』「pity」)で決まりのはずだ。

 

<これは例の『三四郎』の“Pity‘s akin to love”……、何と訳しましたっけ、「可哀想だた惚れたって事よ」。

(村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』における村上発言)

 

『『三四郎』の〈翻訳〉――不可能性の体験――』(佐々木亜希子)参照。

 

<ヴァイオラ お気の毒に存じます。

オリヴィア というのは恋への一歩ね。

ヴァイオラ いいえ、残念ながら違います。敵を気の毒に思うことすら、ままあることでございます。

(ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』第三幕第一場)>

 

〈三四郎は美禰子の「敵」だ〉という隠蔽された物語がある。この物語を合理的に表現しようとすると、〈三四郎は「敵」を恐れる〉と〈三四郎は「敵」に愛されたがる〉の二種に分裂してしまう。作者は物語の分裂を隠蔽することによって深遠に見せかけている。

作者の期待する訳は、〈同情は愛情に偽装した「厭味(いやみ)」(『三四郎』七)か〉などだろう。

被愛願望は防衛の一種だ。ただし、三四郎にその自覚はない。作者にもなかろう。

 

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5250 「ピチーズ アキン ツー ラッヴ」

5252 「失われたる人の子」

 

美禰子にとって、三四郎は「敵」だったか。

 

<客と遊女が互いを呼ぶ称。

(『広辞苑』「敵」)>

 

美禰子と三四郎は、互いに〈自分を愛させよう〉と競り合っていた。ただし、三四郎にその自覚はなかったらしい。自覚していたら、次のように語られていたろう。

 

<女は顔を上げた。蒼白(あおしろ)き頬(ほお)の締れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、一重(ひとえ)の底に、余れる何物かを蔵(かく)せるが如く、蔵(かく)せるものを見極( き)わめんとあせる男は悉(ことごと)く虜(とりこ)となる。男は眩(まばゆ)げに半ば口元を動かした。口の居住(いずまい)の崩るる時、この人の意志は既に相手の餌食(えじき)とならねばならぬ。下唇(したくちびる)のわざとらしく色めいて、然(しか)も判然(はっき)と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損(そこ)なう。

女は唯(ただ)隼(はやぶさ)の空を搏(う)つが如くちらと眸を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負は既に付いた。舌を腭(あご)頭(さき)に飛ばして、泡(あわ)吹く蟹(かに)と、烏鷺(うろ)を争うは策の尤も拙(つた)なきものである。風(ふう)励(れい)鼓行(ここう)して、已(や)むなく城下の誓(ちかい)をなさしむるは策の尤も凡なるものである。蜜(みつ)を含んで針を吹き、酒を強(し)いて毒を盛るは策の未(いま)だ至らざるものである。最上の戦(たたかい)には一語をも交うる事を許さぬ。拈(ねん)華(げ)の一拶(いっさつ)は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にして又不語である。只躊躇(ちゅうちょ)する事刹那(せつな)なるに、虚をうつ悪魔は、思う坪に迷(まよい)と書き、惑(まどい)と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う間(ま)に引き上げる。下界万丈の鬼火に、腥(なまぐ)さき青(せい)燐(りん)を筆の穂に吹いて、会釈(えしゃく)もなく描き出(いだ)せる文字(もんじ)は、白髪(しらが)をたわしにして洗っても容易(たやす)くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑(わらい)を引き戻(もど)す訳には行くまい。

(夏目漱石『虞美人草』二)>

 

「女」は藤尾。「蒼白(あおしろ)き」原因は不明。「何物か」は被愛願望らしい。「蔵(かく)せるが如く」は〈「蔵(かく)せる」を仄めかす「が如く」〉の不当な略だ。さもなければ、「蔵せるものを見極(き)わめん」とするのは徒労になる。「あせる男は悉(ことごと)く」とあるが、次の文の「男」つまり小野以外に「あせる男」は登場しない。藤尾こそが〈「あせる」女〉だ。ただし、彼女は男漁りをしない。どうやって、小野という「男」一人に絞り込んだのか。母親の指示か。

「戦(たたかい)」とは、男女が互いに相手の愛を奪いあう競争だ。〈相手を愛さずに自分を愛させる〉という「戦(たたかい)」が近代的恋愛と誤解されていたらしい。「ここを去る八千里ならざるも」は〈「ここを去ること八千里」なるインド「ならざる」ここで「も」〉の略。

「虚をうつ」は〈「虚を」つく〉と〈不意を「うつ」〉の混交か。「悪魔」とは、藤尾のこと。「思う坪」の「坪」は〈壷〉が正しい。これは丁半博打の壺だ。「迷(まよい)と書き、惑(まどい)と書き」したら〈迷惑〉になりそう。「失われたる人の子」は〈lost child 〉の直訳らしいが、意味不明。「迷える(ストレイ)子( シープ)」(『三四郎』五)の前触れだろう。

語り手は、〈愛されるための「戦(たたかい)」〉に関する無知を美文によって隠蔽している。

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5250 「ピチーズ アキン ツー ラッヴ」

5253 「露悪家」

 

美禰子は、結婚前にアバンチュールを楽しみたかったみたいだ。

 

<――昔の偽善家はね、何でも人に善く思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害する為めに、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われない様に仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽(あく)までも善に違いないから、――そら、二位一体という様なことになる。

(夏目漱石『三四郎』七)>

 

語っているのは、広田。

「善く思われたい」は被愛願望。

「露悪家」は、広田が「即席に(ママ)作った言葉」(『三四郎』七)だ。広田は「露悪家」の具体例らしいのを何人か挙げているが、私には納得できない。静母子の「好意らしく見せる積り」(下十六)は「露悪」のことだろう。

「二位一体」は〈三位一体〉のもじりだろうが、意味不明。「その理解には教会によって相違がある」(『マイペディア』「三位一体」)とのこと。「そら」と促されても、無学な私には対応できない。広田は胡散臭いやつだ。〈表裏一体〉では駄目なのか。

困ったことに、「露悪」は〈偽悪〉と同じ意味のように誤解されている。

 

<悪いところをわざとさらけ出すこと。

*三四郎(1908)〈夏目漱石〉七「美事な形式を剥ぐと大抵は露悪(ロアク)になるのは知れ切ってゐる」

(『日本国語大辞典』「露悪」)>

 

大間違い。偽悪者とは、目立つために憎まれ口を叩くしかない能のないチンピラだ。「露悪」の「悪いところ」とは〈偽善〉だ。つまり、「露悪」とは〈偽善者ぶること〉だ。

私も即席で〈露善家〉という言葉を作ってみよう。

 

昔の偽悪家はね、何でも人に悪く思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を擽るために、わざわざ偽悪をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽悪としか思われないように仕向けていく。相手は無論善い心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽悪を偽悪そのままで先方に通用させようとする正直な所が露善家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも悪に違いないから(以下、略)

 

広田が「露悪家」を嫌うのは、自分が露善家だからだ。露善家というのは、毒蝮三太夫、ビートたけし、綾小路きみまろあたりの鬱陶しい連中だ。冗談半分、本気も半分。

 

(5250終)


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夏目漱石を読むという虚栄 5240

2021-10-06 11:47:10 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5240 綯い交ぜ

5241 「世界を掻(か)き混ぜて」

 

「三つの世界」は未来の物語の「世界」だ。〈「母」の「世界」〉さえ未来のシェルターだ。

 

<三四郎は床のなかで、この三つの世界を並べて、互に比較してみた。次にこの三つの世界を掻(か)き混ぜて、その中から一つの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問に委(ゆだ)ねるに越した事はない。

(夏目漱石『三四郎』四)>

 

「掻(か)き混ぜて」はいけない。「三つの世界」の物語を、それぞれ、構想すべきだ。

 

<江戸歌舞伎で、顔見世狂言に上演すべき世界⑧を定める儀式。

(『広辞苑』「世界定め」)>

 

三四郎は〈自分の物語〉を語るための世界定めに失敗した。

 

<二つ以上の在来の筋(世界)をまぜ合わせて、一編の脚本に仕立てること。

(『日本国語大辞典』「綯交(ないまぜ)」)>

 

綯い交ぜの例。

 

<入間家の姉娘花子は剃髪して清玄尼となるが、妹の桜姫と吉田家の松若との仲を嫉妬し、破戒する。後に惣太に殺され、その亡霊が若松と同じ姿で現われ、双面(ふたおもて)を演じる。通称「女清玄」。

(『日本国語大辞典』「隅(すみ)田川(だがわ)花(はなの)御所(ごしょ)染(ぞめ)」)>

 

『隅田川花御所染』の第一の「世界」は〈清玄桜姫物〉だ。

 

<清水(きよみず)寺の清玄が桜姫に恋し、堕落して寺を追われ、ついに桜姫のしもべに殺されるが、執念がなお姫につきまとうという筋を取り入れたもの。

(『日本国語大辞典』「清(せい)玄(げん)桜(さくら)姫(ひめ)」)>

 

『隅田川花御所染』の第二の「世界」は〈加賀美山〉だ。

 

<お家横領を企てる大杉源蔵の一味の局岩藤は、密書を中老尾上に拾われたのでこれを草履で打つ。尾上はくやしさの余り自害し、その下女お初が岩藤を討つという筋。

(『日本国語大辞典』「加賀見山(かがみやま)旧錦絵(こきょうのにしきえ)」)>

 

『近世戯曲史序説』(諏訪春雄)参照。

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5240 綯い交ぜ

5242 『ゴドーを待ちながら』

 

『ロンバケ』は『コンペティション』(オリアンスキー監督)と『結婚しない女』(マザースキー監督)の綯い交ぜだ。『セントエルモス・ファイアー』(シュマッカー監督)も考えられるが、これは『ふぞろいの林檎たち』(TBS)や『男女7人夏物語』(TBS)の原典だろうから、『ロンバケ』の直接の原典ではなかろう。とにかく、『ロンバケ』には少なくとも三種の物語の世界があって、それらが一つに統合されていく。

三四郎の「三つの世界」は統合されない。三四郎が「彽徊(ていかい)家(か)」(『三四郎』四)で〈自分の物語〉の「主人公」になれないのは、複数の「世界」の綯い交ぜに成功しないからだ。初心だからではない。彼の〈自分の物語〉は、いわゆるタブラ・ラサの状態、白紙なのではない。逆だ。「三つの世界」という物語の断片がぐじゃぐじゃになっている。ごみ屋敷。

 

<ただこうすると広い第三の世界を眇(びょう)たる一個の細君で代表させる事になる。美しい女性(にょしょう)は沢山ある。美しい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならって、翻訳という字を使ってみた。――苟(いやしく)も人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、その翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を完(まった)からしむる為に、なるべく多くの美しい女性(にょしょう)に接触しなければならない。細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである。

(夏目漱石『三四郎』四)>

 

「こう」は「結果」の内容。「広い」は不可解。「眇たる」は意味不明。「代表させる」が意味不明なので、「事になる」かどうか、不明。

「翻訳」は意味不明。しかも、その結果が「いろいろ」とあるのなら、推量もできない。「沢山」でも「いろいろ」とは限らない。多数と多種は違う。

広田流「翻訳」の仕方が不可解なのだ。

「人格上の言葉」は意味不明。「感化」は意味不明。「個性を完(まった)から」は意味不明。「接触し」の具体例が不明。

「知って」は意味不明。性行為の暗示なら、「接触し」も性的な行為か。「甘んずる」は、満足なのか、諦めるのか。「自己の発達」は意味不明。

 

<伝統的作劇法を完全に無視して、サーカスや寄席(よせ)の道化(どうけ)芝居に近い体裁のもとに、何かを待ち続ける現代の人間の条件をみごとにとらえた作品。

(『日本大百科事典(ニッポニカ)』「ゴドーを待ちながら」)>

 

三四郎のように複数の可能性に対して受身だと、「彽徊(ていかい)家(か)」になる。「道化(どうけ)」を演じるつもりはなくても、笑いものにされる。

「ゴドー」は正体不明だ。三四郎の待ち続ける「あの女」も正体不明だ。そのことに作者は気づいていない。作者が近代的「作劇法」を意図的に破壊しているわけではない。ちなみに、これのパクリの『待ち伏せ』(稲垣浩監督)にはわざとらしい結末があって、滑稽。

 

 

 

 

5000 一も二もない『三四郎』

5200 「三つの世界」

5240 綯い交ぜ

5243 「彼女(かのおんな)の夫(ハズバンド)たる唯一の資格」

 

三四郎は、「三つの世界」を統合することができない。だが、実際には、作者が〈三四郎の物語〉の創作に失敗している。作者は、自分の無力を作中人物の未熟に偽装している。

 

Ⅰa 「母」は三四郎を愛する。

Ⅱa 広田は三四郎を尊ぶ。

Ⅲa 美禰子は三四郎を愛する。

 

〈a群〉の統合は極めて困難だ。これらの物語の主語が全部違うからだ。しかも、〈Ⅰa〉は虚偽だろう。〈Ⅱa〉は期待だ。広田が三四郎を贔屓している様子はない。肝心要の〈Ⅲa〉は、三四郎の妄想である疑いが濃い。美禰子はお花と同様、正体不明なのだ。

 

<美禰子(みねこ)に愛せられるという事実その物が、彼女(かのおんな)の夫(ハズバンド)たる唯一の資格の様な気がしていた。

(夏目漱石『三四郎』九)>

 

〈Ⅲa〉は虚偽の〈Ⅰa〉の異本だ。「美禰子(みねこ)」を「母」に、そして「夫(ハズバンド)」を〈息子〉に置き換えると、マザコンの物語になる。つまり、「美禰子(みねこ)に愛せられる」は、〈理想の「母」に愛されるように「美禰子(みねこ)に愛せられる」〉の不当な略だ。

 

Ⅰb 三四郎は、自分が「母」に愛されていると信じたら、「母」を愛する。

Ⅱb 三四郎は、自分が広田に尊ばれていると信じたら、広田を尊ぶ。

Ⅲb 三四郎は、自分が美禰子に愛されていると信じたら、美禰子を愛する。

 

〈b群〉の主語は同じだから、統合は困難ではなさそうだ。三種の三四郎が「唯一」の〈自分の物語〉に含まれるのであれば、統合はいくらか容易になりそうだ。

では、次の場合、統合は容易か。

 

Ⅰc 太郎は「母」からもらった特殊な黍団子を持っている。

Ⅱc 太郎は男性専用の由緒ありげな鉞を持っている。

Ⅲc 太郎は「美しい女性(にょしょう)」からもらった不思議な玉手箱を持っている。

 

「三つの世界」がそれぞれ単純のようでも、〈c群〉の物語の原典を想起してしまうと、統合は困難になる。三人の太郎は、どのような場面で出会っても、三人のままだ。彼らが同一人物なら、太郎は三種のアイテムを所持している。〈竜宮城とは鬼が島の異名で、酒呑童子は乙姫をさらってきた〉というような、かなり無理な話になる。

無理な玉手箱に相当するのが「ヴァイオリン」(『三四郎』九)だ。これは寒月の物語に由来するエロチックな道具だ。

 (5240終)



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