時代は変わる。新年号「令和」発表前後の思い
「皇恩のもったいなさに滂沱の感涙が・・」
つう人も極めて稀だんべな!
むかし、敬老の日かなんかの決まり原稿を書く際の常套句は、「明治、大正、昭和を生き抜いた八十六年…」とかいうものでした。おらもそんなフレーズを書いた記憶があります。
このデンでいきますと、おらたち「戦争を知らない子どもたち」は「昭和、平成、令和を生きたお年寄りたちが云々」とか書かれることになるんやね!と思います。あまり嬉しくありませんけど。
それはそうと、先月下旬のいつの日だったか、あるところで、ぶっちゃけて言うとそれは市立図書館なんですけどね、おらと同年輩ぐらいの全然知らないおっさん、仮に村木さんと呼びますが、村木さんとふとしたきっかけで珈琲を飲みながら話をかわす成り行きとなりました。村木さんのおごりでね。
「なんだか、学費値上げだかなんだかで騒いでいるうちに全学ストライキになっちまってさあ。ほとんど授業を受けたという記憶もないまま、いつのまにか卒業してたんだよ」と、村木さんはいくらか遠いところを見るような眼差しで言いました。
ずっと、東京の民放のワイド番組を担当してきたお方だといいます。
この度の改元にからみ安晋夫婦や取り巻きの悪口がぽんぽんと出てくるので、こっちも面白がっていろいろ話をしていくうちに、学生時代は法律専攻だったということがわかりました。しかも、刑法は斉藤金作門下の西原春夫教授だったというのです。どうも、おらと同じ学校の二級上の方のようでした。なにせ、全学で4万人もいた学校ですから、石を投げれば同窓生に当たるというようなものです。
卒業後民放に就職できたつうことは村木さんは学生活動家ではなかったと踏んだおらは、「4号館あたりは民青(日本共産党下部組織)ばっかりだったはずですけどぉ、やっぱり授業はなかったんだんべか?」とわざわざ水を向けると、一瞬の沈黙の後、破顔一笑、「こんなとこに稲門会のやつがいたとはね」と大笑いになりました。
村木さんの父上は東芝の労働組合活動家で、戦後の大冤罪事件「松川事件」に連座しかけたのだと話していました。
松川事件というのは、昭和24年(1949)、旧国鉄の東北本線松川駅付近(福島県)で起きた列車転覆事件です。近くには労働争議中の東芝の工場があり、東芝の労働組合員が何人も冤罪で逮捕されました。
父上は、当時、東芝労組本部の専従で松川工場の支援に行くかどうかで同輩とじゃんけんをしたそうです。勝ったので行かなかったのですが、負けた同輩は松川に赴任した数日後にまったくゆえなく逮捕され、無罪を勝ち取るまでの長い間、苦しんだそうです。それを父上はいつも苦にしていて、松川裁判の報道がある日は、家族がラジオの前に正座して成り行きを聞いたのだとも話してくれました。そんなことから、学園が燃えさかった時期にも学生運動には距離を置いたのだそうです。
というようなことから、話は「連合赤軍事件」に飛び、村木さんは「あの事件で全国の学園闘争というものはほんとうに一朝にして崩れ去ったと言えるよね」と、かなり力の入った論調になっていきました。そうして、「森恒夫の東京拘置所での“自殺”なんかを総合的に考えると、連合赤軍事件には当時の国家権力が大きくかかわっていたと考えざるを得ない」と話を結んだのです。
実はおらも、詳しくは述べませんが、連合赤軍事件の大量殺人発覚に恐れをなして、現実の社会に逃げ戻ったひとりなのです。
当時の学園には大別すれば日本共産党系と反日共系のさまざまな左翼政治党派が乱立していました。反日共系としては例えばブント=社学同やら中核派だとか革マル派、社会党系(向坂派、解放派)から毛沢東派、フロント、四トロといった左翼党派がごちゃごちゃあり、それらに属していた人たちとは別に、おらのようにどの党派にも属さない「ノンセクト」と呼ばれる政治的しろうと人間の集団がどの大学にもゴマンといたのです。
ところが、それらの全学共闘会議(全共闘)に集約されていたノンセクトラジカルの面々は軽井沢の浅間山荘銃撃事件の鎮圧後、連合赤軍のメンバーが群馬の雪山の凍てついた土の下から次々に掘り出されるに及び、「ひぇー」と真っ青になって命からがら日常生活に舞い戻ったのでした。つづく
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前記事のgooリニューアルの関連で、「リアルタイムアクセス解析」の旧バージョンにアクセスできると書きましたが、前記事「追記」の方法では、
旧バージョンにアクセスできないように改定されています。新バージョンにつながってしまいます。いま、気がつきました。ところが笑わせるのは、前記事中にある「リアルタイムアクセス解析」の説明をしている頁では、なんと旧バージョンをサンプルとして説明しているんです。これじゃ、説明にはならなかんべよ!
エロサイト問題ではあんだけみんなからやいやい言われたのに、のろのろの結果、結局なにもやらなかったgooですが、こんなつまらん小細工は迅速にやるんだわさ!まったく感心するぜ!旧バージョンのほうが100倍も良かったぜよ!(そう言えば、みゃブログを最近見てみましたら、あのやいやいが星になっちゃったことがリポートされてました。瞑目)2019-04-05 17:51:31
「皇恩のもったいなさに滂沱の感涙が・・」
つう人も極めて稀だんべな!
むかし、敬老の日かなんかの決まり原稿を書く際の常套句は、「明治、大正、昭和を生き抜いた八十六年…」とかいうものでした。おらもそんなフレーズを書いた記憶があります。
このデンでいきますと、おらたち「戦争を知らない子どもたち」は「昭和、平成、令和を生きたお年寄りたちが云々」とか書かれることになるんやね!と思います。あまり嬉しくありませんけど。
それはそうと、先月下旬のいつの日だったか、あるところで、ぶっちゃけて言うとそれは市立図書館なんですけどね、おらと同年輩ぐらいの全然知らないおっさん、仮に村木さんと呼びますが、村木さんとふとしたきっかけで珈琲を飲みながら話をかわす成り行きとなりました。村木さんのおごりでね。
「なんだか、学費値上げだかなんだかで騒いでいるうちに全学ストライキになっちまってさあ。ほとんど授業を受けたという記憶もないまま、いつのまにか卒業してたんだよ」と、村木さんはいくらか遠いところを見るような眼差しで言いました。
ずっと、東京の民放のワイド番組を担当してきたお方だといいます。
この度の改元にからみ安晋夫婦や取り巻きの悪口がぽんぽんと出てくるので、こっちも面白がっていろいろ話をしていくうちに、学生時代は法律専攻だったということがわかりました。しかも、刑法は斉藤金作門下の西原春夫教授だったというのです。どうも、おらと同じ学校の二級上の方のようでした。なにせ、全学で4万人もいた学校ですから、石を投げれば同窓生に当たるというようなものです。
卒業後民放に就職できたつうことは村木さんは学生活動家ではなかったと踏んだおらは、「4号館あたりは民青(日本共産党下部組織)ばっかりだったはずですけどぉ、やっぱり授業はなかったんだんべか?」とわざわざ水を向けると、一瞬の沈黙の後、破顔一笑、「こんなとこに稲門会のやつがいたとはね」と大笑いになりました。
村木さんの父上は東芝の労働組合活動家で、戦後の大冤罪事件「松川事件」に連座しかけたのだと話していました。
松川事件というのは、昭和24年(1949)、旧国鉄の東北本線松川駅付近(福島県)で起きた列車転覆事件です。近くには労働争議中の東芝の工場があり、東芝の労働組合員が何人も冤罪で逮捕されました。
父上は、当時、東芝労組本部の専従で松川工場の支援に行くかどうかで同輩とじゃんけんをしたそうです。勝ったので行かなかったのですが、負けた同輩は松川に赴任した数日後にまったくゆえなく逮捕され、無罪を勝ち取るまでの長い間、苦しんだそうです。それを父上はいつも苦にしていて、松川裁判の報道がある日は、家族がラジオの前に正座して成り行きを聞いたのだとも話してくれました。そんなことから、学園が燃えさかった時期にも学生運動には距離を置いたのだそうです。
というようなことから、話は「連合赤軍事件」に飛び、村木さんは「あの事件で全国の学園闘争というものはほんとうに一朝にして崩れ去ったと言えるよね」と、かなり力の入った論調になっていきました。そうして、「森恒夫の東京拘置所での“自殺”なんかを総合的に考えると、連合赤軍事件には当時の国家権力が大きくかかわっていたと考えざるを得ない」と話を結んだのです。
実はおらも、詳しくは述べませんが、連合赤軍事件の大量殺人発覚に恐れをなして、現実の社会に逃げ戻ったひとりなのです。
当時の学園には大別すれば日本共産党系と反日共系のさまざまな左翼政治党派が乱立していました。反日共系としては例えばブント=社学同やら中核派だとか革マル派、社会党系(向坂派、解放派)から毛沢東派、フロント、四トロといった左翼党派がごちゃごちゃあり、それらに属していた人たちとは別に、おらのようにどの党派にも属さない「ノンセクト」と呼ばれる政治的しろうと人間の集団がどの大学にもゴマンといたのです。
ところが、それらの全学共闘会議(全共闘)に集約されていたノンセクトラジカルの面々は軽井沢の浅間山荘銃撃事件の鎮圧後、連合赤軍のメンバーが群馬の雪山の凍てついた土の下から次々に掘り出されるに及び、「ひぇー」と真っ青になって命からがら日常生活に舞い戻ったのでした。つづく
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前記事のgooリニューアルの関連で、「リアルタイムアクセス解析」の旧バージョンにアクセスできると書きましたが、前記事「追記」の方法では、
旧バージョンにアクセスできないように改定されています。新バージョンにつながってしまいます。いま、気がつきました。ところが笑わせるのは、前記事中にある「リアルタイムアクセス解析」の説明をしている頁では、なんと旧バージョンをサンプルとして説明しているんです。これじゃ、説明にはならなかんべよ!
エロサイト問題ではあんだけみんなからやいやい言われたのに、のろのろの結果、結局なにもやらなかったgooですが、こんなつまらん小細工は迅速にやるんだわさ!まったく感心するぜ!旧バージョンのほうが100倍も良かったぜよ!(そう言えば、みゃブログを最近見てみましたら、あのやいやいが星になっちゃったことがリポートされてました。瞑目)2019-04-05 17:51:31
https://blog.goo.ne.jp/admin/realtime
👆
大大大好きな、旧バージョンのリアルタイムアクセスってコレだよねっ。
すでに、持っていると思うけどね。
まあ、今回の件は、改悪としか言えないですね。
やいやいの事、(3月7日でしたが、)
お悔やみありがとうございますm(_ _"m)
伊豆バリウスで今年の発表会は出る所存です。
一挺、弾き潰しそうなのでwww
いつも、ありがとう♡
おらも旧バージョンを「お気に入り」に残しておいたんだけど、そこをクリックすると「ログイン頁」に飛ぶだけになってしまったんだよ。
また、新記事の「投稿完了」の頁のボタンからも新バージョンにしか飛ばなくなったので、これは旧バージョンは完全に消えた、消したなと思っていたのでした。
このまま旧バージョンを温存できればいい、と思います。ありがとう。
うちのニャは、先月29日から3日間終日寝てばかりで、左後ろ足がまったく使えず、3本足で不自由に歩いていました。
肉球あたりには何も異常がなく、脚から太ももあたりをなぜてもどうということもなく、どうしたもんかと思っていました。
そのうち徐々に左後ろ足を地につけるようになり、きのうはとうとう4本足でどどーっと走り回れるようになりました。
これって、人間の捻挫みたいなものだったんですかねえ? ともかく自然治癒力で治ったので、誉めてやりました。