今日は、「ら」抜き言葉について私の異端者的発想を書きたいと思います。
みなさんは「ら抜き言葉」を言葉の乱れと、いかがわしく思うでしょうか?
結論から言えば、私は全くいかがわしいことではないと思います。
それどころか、これは言葉の立派な進化です。
ら抜き言葉とは、「食べれる」「見れる」などの言葉を指します。本来の「食べられる」「見られる」という形から「ら」が抜け落ちてしまった、正しくない活用をしている言葉です。つまりは、本来的な活用とは違う使い方をしているのがけしからん、というのが否定派の意見です。
しかし、それを「けしからん」という方々の多くは、言葉の意味まで見ていないような気がします。簡単に言えば、どんな若者でさえ、「ら抜き言葉」を使い分けているという事実に気づいていないのではないでしょうか。
例えば、「食べれる」は、「このきのこは食べれる」「これ以上食べれない」という使い方をします。決して「ライオンに食べれる」などという使い方は誰もしません。つまり、「食べれる」は「可能」の場合にしか使っていないのが現状だと言うことです。「受身」の意味の時はどんな若者もきちんと「食べられる」を使うのです。
つまり、ら抜き言葉は、語の活用において「違う意味で同じ形が存在する」という冗長性を排除するための、画期的な活用だったのです。私は、「受身」と「可能」で意味が違うのだから、形が違っても当然だ、と思います。長い時間をかけてようやく「食べれる」という一意性を持った活用が誕生したのです。これは言語学にとっても歴史的なことではないかと私は考えます。これをただ伝統に反するなどという理由で「けしからん!」と一掃してしまうのはあまりに保守的ではないかと思うわけです。
このように、「ら抜き言葉」は言語的にかなり優れた、進化した言語だと私は考えます。
ついでに、昔中学の先生が「超」って言葉を批判してたんです。「みんな何でもチョーチョーつけやがって、なんなんだあれは。」という具合に。ところが、その先生の批判には、落とし穴がありました。というのも、先生は「超ってのはすごいって意味だろ?てことは旅行に行ってすごい山~とかすごい川~って感動する時は超山~とか超川~とかいうんですかね?言わないでしょいくらなんでも」なんてことを言いました。
そりゃそうです。「超」は「すごい」ではなく、「すごく」なのですから。つまり、我々が普段使っている「超」は「形容詞」ではなく「副詞」なのですから。副詞だから名詞は修飾できません。「超山」なんてだれも言わないのはそのためです。それなら「超すごい山」という使い方をします。先生のくせにあきれた批判をするもんだと、非常に違和感を感じた覚えがあります。
言葉は進化してきたではありませんか。
熟語だって明治時代にやっと生まれたのではありませんか。
熟語なんてみんな外来語の訳語じゃないですか。
それがよくて「食べれる」がいけないなんてのは身勝手じゃありませんか。
たかが一世代や二世代で言葉が変化したからって、意味も考えずに批判ばかりするのはいかがなものかと、言いたいわけです。
屁理屈を言えば平安時代の言葉なんて誰も普通にしゃべれませんよ。
「最近の子はナイフで鉛筆が削れない」という批判も同類です。ではそういう方々に「火をおこせるのか」と問いたい。「弓矢を作って獲物を狩れるのか」と問いたい。多少屁理屈ではありますが、比較するスパンを長くしたらそれと同じだと思います。そういう若者批判をする人は、恐らく「ブラインドタッチ」など出来ないでしょう。つまり、「自分たちの世代のもの」だけに凝り固まっているのです。「ナイフで鉛筆を削る」以前の技術もなければ、それ以降の技術もないのです。無能だと言いたいのではなく、保守的であるがゆえに身に付けるチャンスを自ら逃してきたのです。
自分たちのジェネレーションにアイデンティティを保てなくなると人はそのように若い世代を批判し始めるようです。大昔から続いていることのようです。老人が若者を批判すると言うことは。だから若者を批判している自分の姿に気づいたら、「年取ったんだな」と認めるしかありません。
頭が混乱したので続きはまた今度。後半はいつも意味がわからなくなってきます。。もっと小出しにしていけばうまくかけるんだろか。。
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