暗いブログ
 



人間ってなんだろうね。

たまに人間の知能の高さが恨めしくなる。

ただの動物の一種にすぎないのに。

人間からすれば、人間の世界こそがすべて。

人間の知能がじゃまくさい。

こんなに脳が発達する必要はあったのだろうか。

この知能を持ったことは、最大の武器であると同時に、

最大の弱点だ。

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最近の私はエネルギーがなさ過ぎる。
若さがない。
バイトをやっていた頃のエネルギッシュな自分だったら
もっとがんばっているだろう、と思ってしまう。
そう考える時点でダメだ。
「過去にすがる人間ほど精神状態はよくない。」
まさに、その状態である。

バイト時代の激しく、アグレッシブ極まりなかった頃を取り戻せ。
バイト時代は頭と体がフル回転し、
極限状態の中でアドレナリンを出しまくり、
キッチンで暴れまわっていた。
失敗など恐れず、仕事を避けるどころか何もかも自分でやろうとした。

今はどうだ。
この保守的な態度。
自分がやらないですむようにうまく避ける。
うまいこと周りのペースにあわせ、
さぐりあい、下手なことはしないようにして自分の身を守る。

それが大人の世界?

違う、心が錆付いてるだけだ。
こんなのは大人ではない。

そんな世界は学生までで十分。
まじめで、一生懸命で、必死な姿を見せることができてこそ、
大人ではないか。
そういう大人こそ、カッコいいと、私は思う。

若い頃は
「まじめってカッコ悪い」
「必死になってる姿を見せるのはカッコ悪い」
などというマッチョイズムがあるが、大人になったらいいかげんそんなものは
捨てちまえ。
大人になってからそういうマッチョに目覚めるなんてのはなおのこと最悪だ。

自分はそんなんではいけない。
このままではそうなってしまう。

そうならないために、
まじめに、必死になろう。
のたうちまわって、テンパリまくろう。

失敗したっていいじゃないか。
むしろ失敗しまくりゃいいんだ。
失敗しないようにうまいことやろうとしてると、
いざという時にパワーがでない奴に成り下がるんだ。

必死にやって、失敗しまくって、ぶざまな姿をさらけだしながら、
前に進んで行こうと、今改めて強く思った。
職人気質をとりもどそう。





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時間  


これって答えがあるのかもしれないが、時間って一体何なのかと昔から疑問に思っていた。
相対性理論とかよくわからんし、数学や物理もよくわからんので素人目でみて、
時間はものの移ろいだと思った。

「時間」という独立したものが流れているとすれば、この世の全てのものの動きが止まったとしても、時間は流れるはずだ。
しかし、原子だかなんだかわからんが、この世を構成する最小単位の活動まで全て全く停止したとしたら、それ以上何の変化も無い、つまり時間は流れないということになると思う。
そうなった場合そこには何があるのだろうか。
時間という独立したものがもしあったなら、それは一体何の意味があるのだろうか。

うーん、言ってるいみがわかりません。
飛行機乗ってると時計がずれるとかって。
宇宙が出来る前に何があったのかとかって考えると脳みそがとろけだす。
死んだあとに訪れる永遠の無を考えると、何ともおそろしい。

と、たまに変なことを考える。

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いつからか、心にゆとりがなくなった。

いつからか、深く考えることがなくなった。

いつからか、深く悩むこともなくなった。


そして気づいたら、味の無い人間になっていた。

心にエネルギーがなくなっている。

人に対する思いやり。
変化を恐れぬ心。
忍耐強さ。
仕事に対する意気込み。
全ての飲み会に参加し最後までいようとした熱さ。
激しく興奮し、激しく感動し、激しく悲しむこと。


そういったものが相当薄くなった。

修学旅行では一番最後まで起きていようとするタイプだった。
それほど無茶をしようとすることが好きだったのに、今は全く無理をしようとしない。


考えてみれば今年で26歳、いつの間にこんなに生きたんだ。
知らぬ間に数字だけ増えている。
高校の時から何も変わっていない気がする。
成長していない。

むしろ、退化したとさえ思える。

高校の頃の方が物事を深く考えていた。
高校の時に人間を嫌うまいと心に決めた。
人間を嫌う人間は心がお粗末な人間だと考えた。
過去の自分を激しく反省した。

今の自分は、その頃に比べて心がお粗末になっているとしか言いようが無い。

年齢は関係ない。
ただ単に、自分がゆとりをうしなって人間的レベルが下がっている。

くだらない大人だけにはなりたくない。
ファミレスで横柄な態度を取るような、ヘボいおやじだけにはなりたくない。

心をもっと磨かなければ。



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罪を憎んで人を憎まず。

行いに対して激しく怒り、感情をあらわにすることがあっても、

その人そのものを憎んだり嫌ったりしてはいけない。

人は生まれてくる環境を選べない。

だから、人は中身を選べない。

生まれてくる外見を選べないのと同じように。

犯罪者だって、自分は犯罪をしてやろうと思って生まれてくるわけじゃない。

そんなのあとからでもいくらでも変えられるじゃないかっていうかもしれない。

でも、もとが違えばそれは容易なことじゃない。

だからこそ、罪を憎んで人を憎まず。


私は人を選ばない人間になりたい。

全ての人間と平和に過ごしたい。

自分に害を与えたわけでもない人間を、嫌うことは絶対にない。

意図的に害を与えたとしても、受け入れる、そんな人間になりたい。

布団を盗まれた神父が、「私の布団を盗んだことで彼に暖かい眠りが訪れるのならば、私は幸せだ。」
と言ったらしい。

お人よしのバカと言われたらそれまでだが、最高にかっこいい。

そうはいっても、俺は盗まれたら怒るさ。

それに子供を殺すような奴を許すわけにはいかないさ。

ただもとをたどればその人だって子供を殺そうと思って生まれてきたわけじゃないんだな。

自己矛盾に陥った。。。

なんか中途半端にいいこと書こうとするからこうやって矛盾に陥るんだ。。。。




ただね、何がいいたいかといえば、私よく冷たそうな人間だといわれるんです。

違うんです。こういいたいんです。

「自分、不器用ですから。」




。。。不器用な人間に逃げ道を作った健さんに乾杯!!!

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スタジオジブリ最新作「ゲド戦記」のCMを深夜にテレビで見た。

あの歌はいい。

深夜に一人さびしくテレビを見ていたら、

突然あの歌が流れてきて思いもよらず涙が出てきた。

「テルーの歌」というらしい。

やさしい声と子守唄のようなメロディー、

心がマッサージされたかのような感覚で、最初聞いたときなぜかすっごい涙が出た。

それ以来、テルーの歌が頭から離れない。

頭の中でしょっちゅう鳴ってる。

部屋で気づくと鼻歌歌ってる。

どうやら中毒性のある曲のようだ。

うーん、なんかすっごい根暗な人みたいだ。。。



あっ
キーボードの「Y」がすっごい打ちにくくなった。
たまにめりこむ
yyyyyy





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社会人間になりました。

「はやく人間になりたい!!」

はい。意味不明です。

「貧乏だと仲間にはののしられ」という歌詞で始まる、私についての歌を作った奴がいるほど(jetloopsでは配信されておりません)、私は貧乏だったわけです。

というわけで、私は金が稼げりゃなんでもいいんです。
金に執着がありません。金ないくせに人におごるの大好きです。
大学に入ってからは一般的大学生より長時間バイトしていたのでそこそこありました。しかしながら金に執着がないせいか、使いすぎるのです。
隔月で携帯が止まります(料金未払い)。

これが社会人間になり、自由に使える金の幅が広がっただけで私は満足です。
自由にならない金も今まで以上に増えるでしょうが、そんなことはどうでもいいんです。このようにして、私は金に固執しない社会人間になりたいと思います。
ドアエモンのようになってはいけません。

しかしながら、どうせ身を削って金を稼ぐのであれば、多い方がいい、とは考えます。努力によって金が稼げるようになり、自分の成長につながればそれはすばらしい。私の言う「金に固執しない」とは、「金が価値ではない」、ということです。
会社の価値が株価として現れるのが本来的であって、株価が高いから会社の価値が高いというわけではないということのように。中身が伴っていないのに株価にこだわりすぎると滅びるように、金にばかりこだわっていると身を滅ぼすように思います。

「お金で買えない価値がある。買える物は○○○カードで。」



最近、文章が自分でも書いてていみがわかりません。
別にこんな大げさなことを言いたかったわけじゃなく、「ああ、まともに稼げるようになってよかったなぁ」と言いたかっただけなんですが、無理やりなんか意見書こうと思って自分でも意味のわからないことを書いています。
脳がいかれました。
「あ、じゃあそろそろ休憩いかれますか?」
「もともといかれてます。」










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 今日は、「ら」抜き言葉について私の異端者的発想を書きたいと思います。

 みなさんは「ら抜き言葉」を言葉の乱れと、いかがわしく思うでしょうか?

 結論から言えば、私は全くいかがわしいことではないと思います。
それどころか、これは言葉の立派な進化です。


 ら抜き言葉とは、「食べれる」「見れる」などの言葉を指します。本来の「食べられる」「見られる」という形から「ら」が抜け落ちてしまった、正しくない活用をしている言葉です。つまりは、本来的な活用とは違う使い方をしているのがけしからん、というのが否定派の意見です。
 しかし、それを「けしからん」という方々の多くは、言葉の意味まで見ていないような気がします。簡単に言えば、どんな若者でさえ、「ら抜き言葉」を使い分けているという事実に気づいていないのではないでしょうか。
 
 例えば、「食べれる」は、「このきのこは食べれる」「これ以上食べれない」という使い方をします。決して「ライオンに食べれる」などという使い方は誰もしません。つまり、「食べれる」は「可能」の場合にしか使っていないのが現状だと言うことです。「受身」の意味の時はどんな若者もきちんと「食べられる」を使うのです。
 つまり、ら抜き言葉は、語の活用において「違う意味で同じ形が存在する」という冗長性を排除するための、画期的な活用だったのです。私は、「受身」と「可能」で意味が違うのだから、形が違っても当然だ、と思います。長い時間をかけてようやく「食べれる」という一意性を持った活用が誕生したのです。これは言語学にとっても歴史的なことではないかと私は考えます。これをただ伝統に反するなどという理由で「けしからん!」と一掃してしまうのはあまりに保守的ではないかと思うわけです。
 
 このように、「ら抜き言葉」は言語的にかなり優れた、進化した言語だと私は考えます。

 
 ついでに、昔中学の先生が「超」って言葉を批判してたんです。「みんな何でもチョーチョーつけやがって、なんなんだあれは。」という具合に。ところが、その先生の批判には、落とし穴がありました。というのも、先生は「超ってのはすごいって意味だろ?てことは旅行に行ってすごい山~とかすごい川~って感動する時は超山~とか超川~とかいうんですかね?言わないでしょいくらなんでも」なんてことを言いました。
 そりゃそうです。「超」は「すごい」ではなく、「すごく」なのですから。つまり、我々が普段使っている「超」は「形容詞」ではなく「副詞」なのですから。副詞だから名詞は修飾できません。「超山」なんてだれも言わないのはそのためです。それなら「超すごい山」という使い方をします。先生のくせにあきれた批判をするもんだと、非常に違和感を感じた覚えがあります。


 
 言葉は進化してきたではありませんか。
熟語だって明治時代にやっと生まれたのではありませんか。
熟語なんてみんな外来語の訳語じゃないですか。
それがよくて「食べれる」がいけないなんてのは身勝手じゃありませんか。
たかが一世代や二世代で言葉が変化したからって、意味も考えずに批判ばかりするのはいかがなものかと、言いたいわけです。
屁理屈を言えば平安時代の言葉なんて誰も普通にしゃべれませんよ。

 「最近の子はナイフで鉛筆が削れない」という批判も同類です。ではそういう方々に「火をおこせるのか」と問いたい。「弓矢を作って獲物を狩れるのか」と問いたい。多少屁理屈ではありますが、比較するスパンを長くしたらそれと同じだと思います。そういう若者批判をする人は、恐らく「ブラインドタッチ」など出来ないでしょう。つまり、「自分たちの世代のもの」だけに凝り固まっているのです。「ナイフで鉛筆を削る」以前の技術もなければ、それ以降の技術もないのです。無能だと言いたいのではなく、保守的であるがゆえに身に付けるチャンスを自ら逃してきたのです。
 自分たちのジェネレーションにアイデンティティを保てなくなると人はそのように若い世代を批判し始めるようです。大昔から続いていることのようです。老人が若者を批判すると言うことは。だから若者を批判している自分の姿に気づいたら、「年取ったんだな」と認めるしかありません。

 頭が混乱したので続きはまた今度。後半はいつも意味がわからなくなってきます。。もっと小出しにしていけばうまくかけるんだろか。。


 

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「大人になるということはバカになるということなんだ。大人ってなにかおかしいんじゃないか、社会ってどこか変だ。君たちが今もっているその感覚をどうか忘れないでいてほしい。」

 私の予備校時代のある先生はそういった。その時私はにわかには理解できなかった。大人が正しいんじゃなくて子供の感覚が正しい?一体どういうことなんだ。

しかし、実際正しいのは大人だ。なぜなら人間は社会的動物であり、社会の中で生きることこそが最も適応的なはずだからだ。つまり、社会という観点から見たとき、大人の方が正しいのだろう。

しかし、同時に「社会に適応する」ということは「社会に毒される」ことである。
自身が身を置く「社会」のフィルターを通してしか、物事を見れなくなるということである。
なぜそれが「毒される」ということになるのか?社会でうまくやっていくために大人の振る舞いを身につけ、処世術を見につけ、現実的な考え方をして社会の中でやっていくのに必要なスキルを身につけることの一体何が毒なのか。

それは、ともすると本質を見失うことになりかねないからである。社会が無条件に正しいものであると信じて疑わず、身を置く社会のフィルターを通して見たものこそが真実である、と思っていることに何の疑問も持てなくなってしまう。

たとえばあなたはたぶん日本人だろう。だとすると、「虹の色は何色?」と聞かれてほぼ間違いなく「七色」と答えるだろう。だが実は答えは国によって違う。「3色」である国や「5色」である国もある。色は本来無限である。その無限のグラデーションを便宜上、歴史的経緯などから日本では伝統的に「七色」ということに落ち着いているだけの話である。同じく、月の模様が文化的背景などから日本では「餅をつくウサギ」となっているが、「カニ」や「蝶」である国もある。
社会のフィルターを通すということはそういうことだ。

 たぶん予備校の先生はフィルターを通してしか物事を見れない人を「バカ」と言いたかったのだろうと思う。だからフィルターに過ぎないと意識できることが必要なのだと思う。それは社会生活を円滑に営むための道具に過ぎず、決して真実などではないはずなのである。しかしやはり人間は社会的動物なので人と違うことばかりいっていてはまともに生活できない。だから社会のフィルターはただの道具と意識し、たまにはフィルターを外して見ることも大切なのではないかと思う。
じゃないと本当に「社会に毒される」ことになってしまう。

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彼女とラーメンを食べた。
我々は日頃究極のラーメンを追い求めてあまり多くはないが有名といわれるような
ラーメン屋に何度か足を運んでいる。

しかし、どれもこれも物足りない。ものによってはカップラーメンの和風だしパックのにおいが
プンプンする。「うまい!」という「感動」を受けるにいたっていない。食べるたびに
「うーん いまいちだなぁ。こんなんで行列作れるかい!」という代物ばかりだ。
我々はまたしても感動と希望を求めラーメン屋に足を運んだ。そしてそれはまた絶望へとかわった。

そこで彼女が言った。
「ラーメンはもともとそんなにおいしいものじゃないんだ。ラーメンという食べ物には限界があるんだ。」

私ははっとした。そうだ、まさにそれだ。結論から言うと、ラーメンに「うまい!」という「感動」を求めすぎていたのだ。ラーメンはノスタルジックなものなのだ。ラーメンが我々に与えられるものがあるとすればそれは「懐かしさ」であり「安堵」であり「感動」ではない。しかし、我々はラーメンがあたかも高級料理であるかのように錯覚し、たとえばおいしいエビチリを食べたときの「うまい!」という感動、未知の味に触れたときの感動をラーメンに求めていたのだ。記憶をたどってみると、確かに舌に鮮明に残るラーメンの味というものを私は覚えていない。ラーメンを食べてうまいさしみでも食った時のような衝撃を感じたことはない。ばーちゃんにつれてってもらった洋食屋のエビフライに感動したことこそあれ、ラーメンで似たような体験はない。だが我々はラーメンを「おいしいもの」だと思っている。記憶が美化されているのだ。
もともとラーメンは陳腐な食べ物だったはずだ。あまりに身近に存在し、金のないときはラーメンのお世話になる、そういう存在だったはずだ。
その昔の記憶が美化されているのだ。ラーメンは味噌汁に近いともいえる。本当にうまい味噌汁というものが我々はなんなのかうまく想像できないのが普通ではないだろうか。うまい味噌汁を口にしてもそこにあるのは感動というよりむしろ途方もない安心感といったものではないだろうか。どんなにうまい味噌汁があろうともそれは所詮我々日本人的感覚で「味噌汁」でしかないのだ。イセエビでもボンと入れれば別だろうが、味噌汁は高級料理足り得ないのではないだろうか。イメージとして。
ラーメンにもそのイメージは付きまとうはずだが、いつしかその記憶は美化された。そこにうまく入り込んだのがこの「ラーメンブーム」である。卵が先かひよこが先かだが、ブームによって美化されたのか、あるいは我々の日常からラーメンが遠くなりつつあって美化されたのか、理由はわからないが、「おいしいラーメン」を追い求めるという風潮が生まれたのは事実だ。
つまりラーメンブームによって人々は「美化されたラーメン像」を追い求め、やたらめったら凝ったラーメンに行列を作ってまで群がるのだ。しかし、多くの人は感じているのではないだろうか、本当にうまいラーメンにまだであっていないと。
そう、出会うはずもない。真の三角形は存在しないというイデアのように究極のラーメンなど存在しないのだ。イデアを求めているのだ。だからこそ、人は更なる高みを目指してまた行列に並ぶのである。いつしか人々の心の中に「ラーメンの本質は懐かしさである」という思いがよみがえるかもしれない。すると、この加熱しきったラーメンブームは次第におさまっていくのではないかと思っている。徐々にシンプルなものを求めるようになり、近所の廃れかけたラーメン屋で食べた一杯に至福の喜びを感じるようになるかもしれない。近所のラーメンをすすったその瞬間、もっとも強い「感動」を覚えるかもしれない。

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