2016/05/15 源平墨俣川古戦場から青墓へ平家物語をたどる
◇源平墨俣古戦場(源平墨俣川の合戦)
養和元年(1181)長良川をはさんで源平の源平の大激戦が展開された場所。
源行家(頼朝の叔父)は「清盛死す」を聞き、「時こそ来たれ」甥の源義円(頼朝の弟)は6000騎で、平家の平重衡率いる3万騎の中へ無謀に攻め入り惨敗した。
○義円公園
公園全景 古戦場碑
○義円地蔵と義円供養塔
義円地蔵 義円供養塔
◇満福寺(真宗大谷派)
寛和の頃(985)天台宗の伽藍として創建されたが、熊谷蓮生房の猶子、祐照法師が浄土真宗の宗祖親鸞聖人に帰依してより、嘉禎元年(1235)羽島郡西門間の庄足近に金足山満福寺建て、現地に至る。
熊谷直実ゆかりの寺で江戸時代の墨俣宿本陣跡などが連なっています。
○熊谷堂
満福寺の祖先熊谷蓮生房(れんせいぼう)こと熊谷次郎直実の遺徳を顕彰するために昭和63年(1988)に建立された。
本堂 熊谷堂 墨俣宿の寺町
◇青墓
この地は、朝長(頼朝の兄)と夜叉御前(朝長の妹)の悲劇の場所で、
義朝は朝長を東海道に向かう自分に同行させようとするが、朝長は都を落ちるとき比叡山の僧兵に討たれた左太股に矢傷が膿んで歩けず青墓に戻ってしまう。父の義朝に頼んで殺害してもらったという。義朝は涙ながらに朝長を斬った。
夜叉御前は兄頼朝を平宗清に捕らえられたのをなげき、20歳の若さで杭瀬川に身を投げた。
表参道口 入口の石柱 「史跡の里」の看板
○芭蕉の句碑
苔埋む 蔦のうつつの 念佛哉
句碑
○朝長墓所
入口 墓所(右より義朝・義平・朝長)
○青墓の長者大炊家の墓
案内板 大炊家の墓
○元円興寺跡
延暦九年(790)最澄(伝教大師)が東国教化の途中この地に立ち寄られ、山頂付近一帯に壮麗な七堂伽藍を配した円興寺を創建された。
説明板 配置図
配置図 土塁 塔跡の礎石
○炭焼窯
円興寺の住職が昭和30年頃まで、寺用に炭を焼いていた。
炭焼窯
○裏参道入口
裏参道口 入口の石柱
◇円興寺(天台宗)
延暦9年(790)青墓の長者大炊氏に頼み願いを受け、最澄(伝教大師)が開山したという。
後、天正二年(1574)信長に焼かれ、万治元年(1658)この地に再建された。
参道 騎乗の朝長
○歌碑
平安時代の歌謡「今様」の聖地ある。
「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の碑や、
「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さえこそ動るがるれ・・・・」
歌碑が建っている。
◇明星綸寺(真言宗)
持統天皇の勅願により鎮護国家の道場として朱鳥元年(686)に役小角(えんのおづの)の創立に始まり、その後衰退していたが空海(弘法大師)来山し諸堂を再建修復す。このとき桓武天皇は勅願を下し封戸三百石を寄進された。その後、慶長十四年美濃高須の城主徳永法院壽昌公は本堂はじめ諸堂を再建され、江戸時代に入って大垣藩主戸田家は代々祈祷所と定め帰依し保護となった。
○仁王門
仁王門
○本堂
本堂
○地蔵堂
地蔵堂
○芭蕉の句碑
はとのこえ みにしみわたる いわとかな (はせを)
石碑
○金正山(きんしょうざん)岩巣公園(磨崖仏観音)
自然の造形によるカルスト台地の縮小版の奇岩怪石が群立する自然岩公園で、石灰岩層の露出面が長期にわたり自然風化したものだそうです。
石灰岩層 磨崖仏観音
以上
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