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2016/10/20 奈良北部を訪ねる。(般若寺・秋篠寺)
『尾張文化の会』の10月の例会でメンバー40名と拝観に行って来ました。(No383)
今回は春日井IC→巨椋IC・国道・城陽IC→木津IC→般若寺→(食事)→秋篠寺→平城宮跡資料館→木津IC→春日井ICの行程です。
◆般若寺(はんにゃじ)真言律宗
飛鳥時代に高句麗の慧灌(えかん)法師によって開かれた。
都が奈良に遷って天平七年(735)聖武天皇が平城京の鬼門を守るため『大般若経』を基壇に納め卒塔婆を建てられたにが寺名と伝わる。
○楼門(国宝)[鎌倉]
文永四年(1267)の建造で日本最古と伝える。室町・戦国時代にはたび重なる合戦の渦中におかれながらも奇跡的に兵火をのがれた。屋根ははばたく鳥のつばさのような屋根のそりをもち全体に伝統の和様形式で均整のとれた姿は「最も美しい楼門」とたたえられている。
般若寺石碑 楼門
○本堂[江戸]
本堂 本堂と十三重石宝塔の基盤
○十三重石宝塔(重文)[鎌倉]
卒塔婆の略で、内部に釈迦牟尼仏陀の舎利を祀る。
宋人石工伊行末、行吉らの手で建長五年(1253)頃再建された。高さは五尺(14.2m)で日本を代表する石塔である。
十三重石宝塔 相輪と十三重石宝塔
慶長大地震(1596)で墜落した石製相輪
○顕教四仏(けんぎょうしぶつ) 顕教四仏
○笠塔婆(重文)[鎌倉]
宋人石工伊行吉が弘長元年(1261)に父伊行末の一周忌にあたり父母の供養のため建立。 笠塔婆
○般若寺型石塔籠[鎌倉] 石塔籠
○文殊菩薩獅像[鎌倉]像高45.5cmで八字文殊とよばれる。
般若寺のご本尊で元享四年(1324)後醍醐天皇の御願成就のため造顕した。
文殊菩薩獅像
○秘仏阿弥陀如来(重文)[白鳳]総高40.9cm聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のため奉納と伝える。十三重石宝塔の大修理(昭和39年1960)に五重軸石から発見された。 阿弥陀如来
○胎内仏三尊(重文)[平安]地蔵菩薩、総高9.8cm大日如来、総高5.2cm十一面観世音菩薩、総高11.8cm
地蔵菩薩、大日如来、十一面観世音菩薩
○藤原頼長公供養塔
若くして内大臣、左大臣となり朝廷政治に凄腕をふるい、崇徳上皇に仕え「保元の乱」の主謀者とされた。
「保元の乱」の最中に流れ矢により重傷し奈良興福寺まで逃れて保元元年(1156)命を落とす。
尾張に関わる藤原師長(頼長の長男)は「保元の乱」で謀反の罪がかけられ、後に太政大臣にまで昇進するものの、平清盛によって再び尾張に配流され波乱の生涯を送っている。
名古屋市瑞穂区妙音通は藤原師長の法号「妙音院」によると伝えられ嶋川稲荷に『師長流謫居跡』の石碑が建っている。 頼長公供養塔
○平重衡公供養塔
平清盛の五男、治承四年(1181)「似仁王の乱」を平定した後、般若寺の地で戦い夜分に入り総大将重衡が門前に立って夜戦の明かり採りが、折からの北風にあおられた火は般若寺を焼き火は東大寺、興福寺まで及んだと伝える。時は過ぎ木津川の川原で処刑し、その首を持ち帰り般若寺の門前にさらしたと伝える。 重衡公供養塔
・会津八一歌碑
ならさかの いしのほとけの おとがひに こさめなかるる はるはきにけり 八一
(奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり) 歌碑
・2016秋のコスモス
現在コスモスは40種近く作出されていますが、般若寺では20種類を植えている。珍しい種類は、「ダブルクリック」「シーシェル」「サイケ」「オータムビューテイ」「イエローガーデン」「ピコテイ」と般若寺のお姉さんに説明書を頂いた。 シーシェル
◆秋篠寺(あきしのでら)
奈良時代末期の宝亀七年(776)光仁天皇の勅願により開基する。
○本堂(国宝)
鎌倉時代か奈良時代か不明であるが、様式的に奈良時代建築の伝統生かし純和様建築とされる。
○薬師瑠璃光如来坐像(重文)秋篠寺のご本尊で脇像には日光菩薩、月光菩薩、帝釈天、地蔵菩薩は(重文)で外に愛染明王、不動明王、五大力菩薩、十二神将が段上に並んでいます。
照明効果で本尊の薬師如来の光背陰影が美しく壁に映っていました。
・伎芸天(重文)
仏像本の「その他の天部」の頁に有った、伎芸天は、諸芸の上達にご利益のある天女。日本では造像例は少なく、これも初めから伎芸天として造られたかは不明ながら、奈良時代の乾漆造の頭部、鎌倉時代の木造の体部をもつ奈良の秋篠寺像が、美しい像として有名です。と「仏像の見方ハンドブック」にあった。お顔だち、微妙な腰の太さと捻りは男性軍の目を輝かせる美しい像である。 伎芸天
写真撮影は当然出来ませんでした。(見つけた画像をお借りしました)
見忘れた歌碑
・会津八一歌碑
あきしのの みてらをいでて かへりみる いこまがたけに ひはおちむとす 八一
(秋篠のみ寺を いでて かへりみる 生駒がたけに 日はおちむとす)
<画像なし>
・金堂跡
金堂跡地の苔
◆平城宮跡資料館
平城宮は約1km四方の広さで、大極殿や朝堂院などの宮殿のほか、天皇の住まいである内裏があり、周囲には国の役所の宮内省をはじめ兵部省、式部省が建ち並んでいた。資料館には宮殿復原展示等コーナーや発掘調査の過程と出土品を展示してあります。
平城宮跡資料館 資料館前より第一次大極殿 車窓からの朱雀門 平城宮跡の地図
以上
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