京の薬種商の内儀③
仕事は自分には向いていないと思っていたが、さしあたりはやっておかないといけないことは十分わかっていた。歯抜けばあさんのおかげで、仕事のコツがわかるとずいぶん楽な仕事であることもわかってきた。初めての給金は半月分で20円であった。ばあさんは自分はひと月働いてその半分と少ししかもらってないと言っていた。自分は通いだから仕方ないとも言っていた。時々、ばあさんは気を利かして野菜を買うのにお雪を付き合わせてくれた。まず人の後ろをまた人が歩いているのにびっくりして、その人々が着飾っていることに気づくまで時間がかかったほどの驚きであった。
内儀はいつも帳場に座っていて帳面をつけていた。用事のある時だけそこに番頭が座ることもあったが四名いる店員は一切帳簿に触れることは許されなかった。そうして毎夜番頭と内儀が帳簿と売上金をもって主人の寝ている部屋にやってきて、内儀が帳簿を読み上げ番頭がそろばんをはじくことが儀式のように行われた。その時主人を布団の上に座らせてその肉の落ちた背中を支えるのはお雪の役目であった。ごくまれに仕入れの部で定吉さんから何かを仕入れたのであろう定吉さんの名前が読み上げられるとひどく懐かしく思われる。しかしそのとき支払われた金額は驚くほど低いものだった。これでは交通費や宿泊費も賄えないのではないか、定吉さんのお商売はうまくいく目途が今のところ立っていないのではないかと思われた。
帳簿と現金の残高が会ったとき主人はわずかに満足そうな表情を浮かべた。二人はこの表情を見ると目配せして主人の前から引き下がり、お雪は主人をふたたび布団の上に寝かしつけることができた。主人はこれを聞くことが唯一の生きる楽しみの様子であるし、二人はこれを聞かすことが仕事をする目的であるように見えた。
祇園祭の時もお店は開いていた。この時ばかりは店員も交代で祭り見物に出かけることが許されたし、お雪もばあさんに連れられて少しの時間だが見物することができた。せっかくだったが祭りはお雪にとっては、ヒトが多いのに酔ってしまってむな苦しいだけであった。
お盆の四日間お店は閉めるが、昼間くぐり戸だけは開けておいて急なお客には対応することになっていた。番頭も店員もみな帰るので内儀一人で対応する、といってもお客はそんなに多くはない。内儀はお雪に今年の藪入りはあきらめてくれと盛んに言ってくるが、故郷で自分の母親が自分のことを父親と同じようになるんではないか心配していることを思うと、ここはどんなことをしても帰らねばいけなかった。お正月は必ず帰郷しないようにするから、今年は返してくれと頼み込んでやっと帰ることになった。その間はばあさんの遠縁の娘さんが来てくれることになった。この程度の仕事ならご内儀が自分でやってもできそうなのだがと不思議に思うばかりである。
母親のために古着を買い求め、お菓子を手に持てるだけ持って帰郷して一泊だけという約束であったのでせわしなく次の日の朝には発たなければいけなかった。姉には是非京で仕事を探すように勧めた。二人の稼ぎで町中に小さな家を借りて三人でやっていけるんではないかと相談した。二人ともまんざらではない表情であったので、三人で幸せに暮らしていけるかもしれないとやっと希望を持つことができた。お雪は絶対に再婚しないつもりであった。
さて鈴虫の声が、背中を支えるお雪の耳にも喧しく聞こえるある夜のことです。いつもの通りそろばんをはじく番頭のそろばん玉の音を聞きながら、お雪も暗算で頭の中で計算しています。これはやるなと言われても読み上げを聞いていると自然に目の前に仮想のそろばんがあらわれ珠が動き出すのです。番頭が六の球を置かねばいけないところ四の球を置いたような音がしたので、思わず小さな声で「アッ」と出してしまいました。番頭は急に取り乱して指が動かなくなり「まことにあいすいませんご破算で願います。」と申し述べますが表情はなんだか苦しそうです。もう一度初めからそろばんを入れます。同じところでまた同じことがおこりまたお雪は「アッ」と出してしまいました。今度は何事もなく計算が終了しましたが、番頭の出した結果はお雪の暗算とちょうど二円違っていました。しかし番頭の結果とその日の現金残高はピタリ一致していてその夜はそれで何事もなく終わりました。