本の感想

本の感想など

 柳橋新誌(成島柳北)を見る② これは連歌の会みたいなもの

2022-11-23 15:28:04 | 日記

 柳橋新誌(成島柳北)を見る② これは連歌の会みたいなもの

 どうも現代のエッセイのように起承転結があって、通読してなるほどと思わせるという風に書いてあるものとは全く異なる書き方をしている。二十行ぐらいの節それぞれがほぼ同じ内容の繰り返しになっている。内容は、お客の質が低下して田舎者が増えてきたこと、妓の質が落ちてきたことをあの手この手で書き綴っている。これはサザエさんの四コマ漫画が連続しているようなもんで、少しずつ違うと言えば違うが全体としてのんびりしたほのぼのとした情緒を表現しているのと同様、同じようなことを書き連ねて全体としてある雰囲気を表そうとしているエッセイである。

 しかし詳しく読むと面白いところがあちこちにあって、それは第一に文章のリズム第二に古典を引用してお互い(書き手読み手)の博識を確認する姿勢がみられるところである。さらに古典を字義通り用いないで一ひねりして用いるから何とも言えない諧謔が出てくる。これをみんなで楽しむのであるから、連歌の会俳句の集まりみたいなものと見られる。全員参加のお笑いの会みたいなものと想像される。

ワープロでは文章を書き写すことが困難になっているので部分だけしかできないが、例えば明治時代になってから新政府は幕府時代は駄目であった役人が遊里に行くことを大目に見るようになった。それで高官が妓楼へしばしば訪れるのを「駟馬高蓋、時あって蘇小の家を三顧す。」と表現している。蘇小の家とは中国の有名な妓女の家。これでは、仲間内だけで通じる隠語をつかって遊んでいる風にも見えるし気障だとも思う。しかし文にリズムがあって中身はつまらないことでも、駟馬高蓋に乗ってる人は立派な人でやってることも立派なことであるかの如き錯覚を起こさせて、読み終わって半日ほどしてなーんだと読み手に思わせる効果がある。文というのはかくもヒトをだますものですよと暗に言ってるのかもしれない。

 文にリズムがあるのはこの人が漢文の将軍侍講まで勤めた人であること、オカタイ孔孟の教えだけではなく通俗本まで読み込んだ人であることが理由だろう。そのほかこの一文からだけでも幕府の文化政策には批判的であったこと、その幕府の時代にうかうかとまたはうまうまと乗せられて真面目にやってきたヒトを笑い飛ばしていること、そのあとに続く明治の高官も笑いの種にしようとしていることなどが分かる。

 私は、むかし酒井抱一の事績を読んでこの人姫路の殿様の弟だから悪くてもそれなりの地位が得られてそれなりの生活ができるはずなのに何で絵描きさんになったのか不思議で仕方なかった。いかに絵がうまくともアートは今も昔も売り物にならないところがあるのでそれで生活を立てることは難しいだろうにと思っていた。

抱一さんは、不自由な生活を嫌ったからというのもあるけど、すでにその時幕府の命運が短いことを直感していたと思う。成島さんは明治になってから書いているけど、この人もすでに幕末に命運が短いことを直感していたのではないか。それは真面目な人では大きな組織運営はできませんよとこのエッセイの中で繰り返し繰り返し言っていることから推察することです。

幕府が弱ってきたのは、その基盤が農村の上に乗っかっていてこれを他の例えば工業資本や商業資本の上に乗るように改革できなかったことだけにあるのではない。幕府官僚に変に真面目な生活を強要するあまり倫理を求めて肝心のおカネの流れを見る目を失わしめたところが原因ではないか。ある程度融通の利く生活を幕府官僚にさせれば、細かいところでのヒトの心も理解できおカネの流れも把握できたので農村の上に乗る体制を変えることまではできないにせよもう少し幕府を長持ちさせることができたのではないか。ヒトの心が分かることは、おカネの流れを理解できることにつながることは成島さんの本をよんでいると何となくわかってくる。