断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む㉘ 日記の中身はなにもかも正直に書いているであろうと思います
昭和二十二年一月二十二日に、「今の世を生きんとするには寒気を物ともせず重きものを背負う体力あらば足りるなり。つくづく学問道徳の無用なるを知る。」とあります。この前後には、この時代の世相を何度も繰り返し書いてあります。物価の高騰はもちろん停電で寒さに震えたとか炊事が困難であるとか、どこそこの戦争成金の家には強盗が押し入ったとかです。悪名高い財産税は一月十五日に記載があります。この記述の前半はなるほどそうだと言えますが後半には待ったをかける必要がある。
「学問は必要ない」ここまではいいが「道徳は必要ない」とは荷風さんの口からは言ってはいけない言葉ではないか。お前が言うなと言いたくなるところです。今まで散々悪所へ通いこんなことしたあんなことしたこんな面白い話があったと日記に書き綴ってさらには小説に仕立てておいて道徳破りなことをしていて、(しかも道徳破りはこれからすぐ再開されるんです)それで今の世には「道徳は必要ない」とはちゃんとした人がいうならともかくあんたには言う資格ない、と思うところです。
まず荷風さんが断腸亭とか日乗とかの言葉を使うところから、衒学的でマウント志向の人であることは間違いないでしょう。マウント志向の人は、勝つためには格好をつける傾向があると見ます。(ですからこういう人は学問に優れた賢い人であるかもしれませんがお付き合いはしたくない。)自分が道徳破りなことをしてそれを棚に上げて「今の世を生きるには道徳は必要ない」とはなんという言い草であるか、この人単にええ格好しいなだけではないのか。
しかし、そう思うのは思ったほうがそういう時代に生きてきただけのことだとも言えます。多分こちらの方が本当のところでしょう。戦後世代は、ごくごく小さいころから悪所に近づくのはとても悪いことだと徹底した教育を受けてきた。もし近づいたのがいたらそういう輩とは交際を絶たねばいけない。行けばあの世に行ってから地獄に落ちて針の山の上を歩くことを強要されるぞ。(わたくしは特に名を秘すが今頃は針の山を歩いているはずの友人を知っています。)ありとあらゆる脅しを受けてきました。悪所へ行かないことがヒトとして最低限の道徳であると信じ込まされたのです。そういう人間からみると荷風さんは道徳心のかけらもない人間に見えます。
しかし、荷風さんはまさか行くことを奨励される気風ではないでしょうが、昼ご飯をコンビニに買いに行くような感覚ではないかと想像されます。なかに頑固にいや自分は絶対自炊するというのがいたら「あいつけちん坊の変わりもんやな」と評価する時代に大きくなったと考えられます。もし今荷風さんにあんた一月二十二日のあの言い草はちょっとひどすぎやしませんかと言ったところで、きっと何言われているのか分からないでしょう。日記の他の記載から判断して、荷風さんは絶対本当のことを書こうと決心して、もし伝聞なら伝聞であると大きく断りを入れて書こうとしている節が見られます。書いてあることは全部本当でまぎれもない本心であるとみられます。
散々こちらが説明してやっとお互いの立場が理解してもらえたとして、荷風さんはどんな秀抜な言葉を書き連ねるか。「のちの世の人は、何らの楽しみも無くて日を夜に継いでむつかしい仕事をし続けることができる、不思議な人々である。のちの世には生まれたくは無し。」くらいなことは言うだろうと推察します。