散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった・一次資料の限界と論争

2019年06月25日 | 関ヶ原
「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった: 一次史料が伝える“通説を根底から覆す"真実とは」

乃至正彦さんと高橋陽介さん。

題名は「著者がつけたものではない」ようです。出版社が主導。まあ「気になる題名」ではあります。

関ヶ原の合戦がなかったというのは、色々な理由に基づくようですが、もっとも最大の理由は、

・そもそも毛利と徳川の戦いであり、その毛利と徳川は合戦の前日に講和がなっていた。関ヶ原で天下が決まったわけでない。戦場も関ヶ原ではなく山中という場所。
・毛利が仕掛けた。家康の方から積極的に天下を狙ったわけではない。三成は主戦派でもなかったし、総大将でもない。

ふーん。さてどうなんだろというところです。

関ヶ原新説のもう一人の立役者、白峰旬さんは「論の根拠となった一次資料が信用できない」としています。

・「古今消息集」の「慶長五年九月十二日付増田長盛宛石田三成書状」
・吉川広家自筆書状案(慶長五年九月十七日)『吉川家文書之二』

高橋さんはこれを一次資料として重視するわけですが、「三成の書状は後世の偽作である可能性がある」「吉川広家の書状案は本物だが、広家自身が捏造をしたもの」と指摘します。特に吉川文章には厳しく吉川広家が合戦の前日(9月14日)に急遽、家康との和平を取り付けたというのは吉川広家による完全な捏造・合戦の前日に御和平を取り付けたとする起請文(3ヶ条)の2ヶ条目を完璧に、本物の起請文とは別の文にすり替えた(確信犯的おこない)とします。

☆こっからが感想なんですが

上記の三成の書状は、『古今消息集』に掲載されている「写し」とされるもののみ現存です。原本はありません。白峰説が成立する可能性があります。が偽物か本物かを断定することは永遠に不可能でしょう。多数決の問題になるように思います。

吉川文章が捏造である根拠としては本藩の毛利にはそういう文章が一切残っていないことがあげられています。ただ白峰説でなるほどと思うのは「吉川広家に毛利を代表して徳川と交渉する全権などない」という部分です。

別に白峰氏の肩を持つわけではないのです。白峰説だって使用しているのは「合戦に参加した島津家家臣が残した文章」です。本人も一次資料とは言えないと認めています。さらに「一次資料だけでは限界がある」とも書いています。

もし私が歴史学者でもうちょっと頭が良ければ「上記の三成文章は偽造、吉川文章は捏造、島津家家来文章は記憶に頼った二次資料の上、島津の立場で書かれた信用できないもの」とすることは可能だと思います。

そうすると高橋説も白峰説も否定可能となります。

ある説が出ても「根拠とした一次資料は怪しい」と言えば、その説はたちまち怪しいものとなっていきます。といって「一次資料ならなんでも信じる」わけにもいきません。

何かと言うと「一次資料に基づいて」と言いますが、おのずと限界があることを知るべきです。

白峰旬氏「新関が原合戦論」の序を読んで・徳川史観について

2019年06月24日 | 関ヶ原
白峰旬氏の「新関ヶ原合戦論」の序を読んで。

ここでは本書の内容については触れません。あくまで「序」のみに限定した書き方をします。

徳川史観という言葉は見たことはあったのですが、ピンと来ませんでした。私は「徳川家康は立派だ」と思ったことはほとんどないからです。そういうドラマも山岡荘八の大河「徳川家康」ぐらいのものでしょう。ウソばかりでツッコミながら見ると面白いという作品です。何度か書きましたが、司馬さんなど「城塞」において「家康の行動はほとんど犯罪的」とまで書いています。

ところが、白峰さんの「序」にも「日本人は徳川史観に騙されている」という記述があります。2011年の本です。

・徳川家康は勝つべくして勝ったと思われている。
・石田三成は人望がなく、毛利輝元は凡庸で、勝てるわけなかったと思われている。
・徳川家康は善政を行い、戦にも連戦連勝だったと思われている。
・日本人は勧善懲悪が好きで、三成は悪人、家康は善人と思っている。
・関ヶ原のイメージも徳川の正統性を主張する軍記物等によって作られた。
・こうした歴史小説的理解・歴史ドラマ的理解は、本当の歴史的理解を妨げる要因となってしまっている。
・徳川史観による虚像を剥ぎ取る必要がある。

本書は「石田、毛利公儀」というものを想定していて、それはそれで面白いのですが、この「序」に見える「時代錯誤感」は何なのだと思います。

たまには小説とか大河ドラマを見たほうがいいのにと思います。

江戸時代、軍記物によって徳川の正統性が主張されたのは確かでしょう。しかし明治維新によって一旦徳川の価値は下がります。慶喜が明治天皇に拝謁するのは明治30年です。

しかし1950年台に山岡荘八によって新たな徳川家康神話が作られ大ヒットしました。中国では今でもベストセラーとのこと。全26巻もあります。

それから60年以上が経つのです。1983年に大河化されていますから、再生産は繰り返されているものの、徳川家康を「聖人君子みたいに」描いたドラマはあれぐらいでしょう。

この本が出た2011年には既に「葵徳川三代」も放映されていますし、「功名が辻」も放映されています。

白峰さんの指摘のうち、当たっているのは「毛利輝元は終始凡庸と描かれてきた」ということぐらいです。石田三成が人望がないと描かれるのも確かです。しかし悪人とか能力がないという描かれ方はしません。むしろ知恵があり過ぎて、能力があり過ぎて人と距離ができてしまうという描かれ方です。

大河「功名が辻」においては
・徳川は負けそうだったが、「小早川に鉄砲ではなく大砲を打ち込んで」裏切りを誘発してので、「やっと勝った」とされている。
・三成は人望はないが能力は極めて高いと描かれている。また「三成死すとも」というタイトルの回があり、彼の「立派な側面」も描かれている。さらに役者は中村橋之助という大物が起用されている。
・家康はたぬき親父であり、善人とはほど遠く描かれている。

さらに家康が描かれる場合、時代劇では「三方原」が描かれる事が多く、連戦連勝とは全く違うイメージで描かれる。

というのが実情です。問鉄砲だって聞こえないだろうということで問大砲に変化しています。そりゃ白峰氏の主張のような「布陣」は描かれません。また「小早川秀秋はすぐに裏切った」とも「戦場は関ヶ原の中の山中という土地」だとも描かれません。そこまで白峯氏の学説を採用するわけないし、そもそもフィクションです。

わたしは「徳川史観の虚像」というものは「今のドラマにはさほどない」と考えます。家康は立派には描かれないし、勝つべくして勝ったとも描かれません。

真田丸では「立派な敵役」です。その上本能寺段階でも「へたれ」です。神君伊賀越えなんて「コント」にされて、逃げ回ってばかりです。最後は流石に人並み以上の武将に成長しました。さらに石田三成はかなり魅力的というか「準主役」という扱いで描かれます。淀殿が悪女として描かれることもありませんでした。

功名が辻の永作博美さんの淀殿は悪女ですが、気合の入った悪女です。信長のめい、浅井長政の娘として「秀吉を破滅させてやる」と考えていますし、「三成の遺志を継いで、自分が徳川を滅ぼしてやる」とも考えます。戦闘的悪女です。

白峰氏は「一次資料を読む」ことにかけてはわたしなど足元にも及ばないほどの能力と博学を備えていると思います。しかし小説・ドラマの家康像に関しては、山岡荘八の段階で止まっているか、あるいは司馬さんの「城塞」における辛辣な家康批判を読むことなく、また大河における家康の像の変化に注目することなく「なんとなくイメージで批判」していると思われます。

TBSドラマ「関ヶ原」の素晴らしさ・太閤の為に涙する徳川家康

2019年06月23日 | 関ヶ原
映画「関ヶ原」は悪夢ですが、同じ原作でありながら1981年TBSドラマ「関ヶ原」は史上最高の日本時代劇かも知れません。

☆言うまでもないことですが、ドラマはドラマです。史実じゃありません。ドラマはフィクションであり、フィクションとして楽しむものです。

加藤剛さん演じる三成、三船敏郎さん演じる島左近、高橋幸治さん演じる大谷刑部、三國連太郎さん演じる本多正信、杉村春子さん演じる寧々、沢村貞子さん演じる前田まつ

松坂慶子さん演じる初芽、そして森繁久彌さん演じる徳川家康

文句のつけようがありません。

まず「前田まつ」から。家康に謀反の濡れ衣を着せられた前田利長はうろたえます。しかし、利長の母であるまつ・芳春院はぴしゃりと言います。「家康殿のねらいも分からないのか。とにかく謝って徳川殿の手に乗らないことだ。あなたには徳川殿と天下を2つに割って争う器量はない。前田の家は利家と自分が作った。あなたはそれを守ればいい。それがあなたの器量です」

次に島左近「この傷ではもう先が知れておる。三成の殿は落ちそうらえ。人はそれぞれに自分に似合った舞を舞う。それでいいのじゃ」左近に三成は言います。「左近、わしはそちと舞いたいのだ」左近「心得てござる」・・・さらばじゃ、正義のお人・・・「ここから先は地獄への旅じゃ、ついてきたいものだけついて来い、目指すは徳川家康ただ一人」

大谷刑部は裏切り金吾に対し「とうとう裏切ったか。ゆくぞ。裏切り者を討て。みな死ねよーし。卑怯者を一人でも多く連れていくのだ」
そして切腹に際しこう言います。「三成、地獄で会おうぞ」

地獄なのです。あの世ではない。自分たちには地獄が似合っていると思っているわけです。奥深い。

初芽についても色々書けますが、長くは書きません。とにかく美しいのです。

三成は捕らえられ家康と対面します。ふたりとも何も言いません、家康は正信に「斬れ」と短く言います。三成は思います。「おれは斬れても義は斬れるものか」

廊下にでた家康は正信に言います。「三成に礼でも言うべきであったか」

そして、ここが好きな場面なのですが「家康が太閤と三成の為に泣く」のです。

「豊臣家子飼いの大名たち、ああも無節操に裏切れるものか。喜ぶ反面心が冷えたわ」

「せめて三成のような家臣がいて、太閤殿も初めてうかばれたであろう」・・・そういって家康・森繁久彌さんは涙を流します。

原作ではこれは「黒田如水の心の声」として描かれています。

秀吉の晩年、もはや大名から庶民にいたるまで、その政権が終わることをひそかに望んでいたにも関わらず、あの男(三成)は、それをさらに続かせようとした。すべての無理はそこにある、と如水は言いたかったが、しかし沈黙した。かわりに
「あの男は、成功した」と言った。ただ一つのことについてである。あの一挙(関ケ原)は、故太閤へのなりよりもの馳走(贈り物)になったであろう。豊臣政権のほろびにあたって、三成などの寵臣までもが、家康のもとに走って媚びを売ったとなれば、世の姿は崩れ、人はけじめを失う。かつは置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば「あの男は十分に成功した」、と如水は言うのである。

さてドラマ。

最後は初芽と正信の会話で終わります。
「わしは三成殿に救われた。わしと三成殿は似ている。知恵ある者は憎まれる。わしはそれを教えてもらった」
「あなたは、三成様とは少しも似ておられません」